【職場が楽しくないという悩み】結局楽しい仕事って内容よりも、人間関係が全てじゃないかと思った日

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吾輩は牛である。名前はモウモウという。

この度、吾輩は人間の営む「仕事」なるものについて、深く考察する機会を得た。吾輩の主人を含め、人間という生き物は実に奇妙な習性を持っている。毎朝決まった時間に起床し、決まった場所へ向かい、決まった作業を繰り返す。これを彼らは「労働」と呼び、その対価として「給料」なるものを受け取るのである。牛である吾輩から見れば、これほど不可解な行動はない。

しかしながら、長年人間を観察してきた吾輩の眼には、一つの真理が見えてきたのである。それは、仕事の楽しさというものが、その内容よりもむしろ人間関係に左右されるのではないか、という仮説である。

考えてみるがよい。世の中の大半の仕事というものは、よっぽど好きでなければ、だいたいは時間を浪費するだけの作業に過ぎないのではないだろうか。書類を整理し、データを入力し、会議で同じような議論を繰り返し、電話に応対する。これらの作業に、果たしてどれほどの創造性や充実感があるというのか。人間は「やりがい」だの「自己実現」だのと美辞麗句を並べるが、現実は単調なルーティンワークの連続である。

吾輩の主人もその一人である。毎朝同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じデスクに座る。そして同じような作業を延々と繰り返すのである。傍から見ていると、まるで水車のように単調な動きを繰り返しているようである。

ところが、である。その退屈なルーティンを乗り越え、長年続けられるのは、結局のところ職場の人間関係だけではないかと、吾輩は確信するに至ったのである。

実際、吾輩の主人が以前勤めていた職場を思い起こしてみるがよい。そこは超ポジティブで、笑いの絶えない、おおらかな雰囲気に満ちていた。しかし同時に、皆が一生懸命に自分の任務を全うし、全力を尽くしている職場でもあった。朝の挨拶から始まり、ちょっとした雑談、昼食時の和やかな会話、そして時には深夜まで続く仕事でも、互いを励まし合い、支え合う姿があった。

このような環境であれば、どんなに単調な作業であっても続けられるのではないだろうか。人間という生き物は、本来群れを成して生きる動物である。孤独を嫌い、仲間との絆を求める。職場という名の群れにおいて、心地よい関係性が築けるかどうかが、その人の職業生活の質を決定するのである。

反対に、どんなに高尚な仕事内容であっても、人間関係がギスギスしていれば長続きしない。吾輩が観察した限りでも、優秀な人材が次々と辞めていく職場の共通点は、決まって人間関係の悪化である。上司の理不尽な要求、同僚間の嫉妬や足の引っ張り合い、部下への無関心。こうした環境では、どんなに仕事に情熱を持っていても、やがて心が折れてしまうのである。

そして最後に、職種というものが絡んでくる気がしている今日この頃である。つまり、良好な人間関係を前提として、初めて仕事の内容が意味を持つのではないだろうか。料理人であれば美味しい料理を作る喜び、医師であれば患者を治す使命感、教師であれば生徒の成長を見守る充実感。しかし、これらもすべて、職場の人間関係が良好であることが大前提なのである。

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職場を去る時にその人の通信簿が渡されるのではないか

吾輩がこのような考えに至ったのは、ある光景を目撃したからである。それは職場を去る最後の日に、その人の成績表が渡されることとなる現場である。皆さんも一度はご覧になったことがあるだろう。

退職者を送り出す際の雰囲気というものは、実に興味深い。通り一遍の「お疲れさまでした」という形式的な挨拶で終わる場合と、本当にその人がいなくなってしまう寂しさを皆が感じている場合がある。この違いは一体何なのだろうか。

前者の場合、退職者は職場において単なる労働力の一部として扱われていたのである。彼らは決められた作業をこなし、決められた時間を過ごし、決められた給料を受け取る。それ以上でもそれ以下でもない。人間関係は表面的で、深いつながりは築かれていない。だからこそ、その人が去っても特別な感慨は生まれないのである。

一方、後者の場合は全く異なる。退職者は職場のコミュニティの一員として、他の人々と深いつながりを築いていたのである。仕事の話だけでなく、プライベートな悩みを相談し合ったり、一緒に笑い合ったり、時には真剣に議論したり。そうした日々の積み重ねが、その人の存在を特別なものにしているのである。

ここで吾輩なりの考察を述べさせていただこう。人間という生き物の根本的な欲求は、承認と所属である。自分が価値のある存在として認められ、何らかの集団に所属しているという実感を得たいのである。職場における人間関係が良好であれば、この欲求が満たされる。逆に人間関係が悪ければ、どんなに高い給料をもらっていても、心の底から満足することはできないのである。

更なる職場についての考察

しかし、ここで一つのユーモアを交えて申し上げよう。人間は実に都合の良い生き物である。職場の人間関係が良好な時は「この仕事にやりがいを感じる」と言い、関係が悪化すると「この仕事は向いていない」と言うのである。仕事の内容は全く変わっていないにも関わらず、である。まるで天気によって景色の見え方が変わるように、人間関係によって仕事の見え方が変わるのである。

さらにアイロニーを込めて言うならば、人間は「人間関係が仕事の質を左右する」という真理に気づいていながら、なぜか人間関係の改善には消極的である。技術的なスキルアップには熱心でも、コミュニケーション能力の向上や職場の雰囲気作りには無関心な人が多い。これほど本末転倒な話があるだろうか。

吾輩の観察によれば、本当に優秀な人間というのは、技術的な能力もさることながら、周囲との調和を保ちながら自分の力を発揮できる人である。彼らは決して自分だけが目立とうとはしない。むしろ、チーム全体のパフォーマンスを向上させることに喜びを見出すのである。

そして、そうした人々がいる職場では、不思議なことに仕事の成果も向上するのである。これは偶然ではない。良好な人間関係が築かれていると、情報の共有がスムーズになり、助け合いの精神が生まれ、創造的なアイデアが生まれやすくなるからである。

一方で、人間関係がギスギスしている職場では、皆が自分の保身に走り、他人の足を引っ張ることに躍起になる。これでは良い成果が生まれるはずがない。結果として、会社全体の業績も悪化し、従業員の満足度も下がるという悪循環に陥るのである。

思うに、現代の企業経営者たちは、この単純な真理をもっと深く理解すべきである。最新の技術や効率的なシステムを導入することも大切だが、それ以上に職場の人間関係を良好に保つことが重要なのである。しかし、多くの経営者は目に見える数字ばかりに注目し、目に見えない人間関係の価値を軽視している。これは実に愚かなことである。

牛である吾輩から見れば、人間の職場というものは実に複雑怪奇である。表面的には合理的で効率的な組織に見えながら、その実態は感情的で非合理的な要素に大きく左右されている。しかし、それこそが人間らしさというものなのかもしれない。

転職と婚活は似ている

吾輩の主人も、最近になってようやくこの真理に気づいたようである。新しい職場を選ぶ際には、給料や待遇よりも、そこで働く人々の雰囲気を重視するようになった。賢明な判断である。

転職も婚活も似ていると思う。人は良好な人間関係を求めるのに、転職では給与や休み、福利厚生などのデータを気にする。婚活でも普段は性格、人間性,相性を求めるのに、いざ結婚相談所に入会すると年収、年齢などのデータで判断しがちだ。

人間とはまことに不思議な生き物だ。

さて、このような哲学的考察を行っていると、吾輩もすっかり疲れてしまった。明日もまた、冷房の効いたおしゃれなカフェでラテを飲みながら、人間社会の不思議について思索を巡らせようと思う。カフェのラテは実に美味で、考察の友として最適である。人間が発明した数少ない素晴らしいもののひとつと言えよう。

結論として申し上げるならば、楽しい仕事とは内容よりも人間関係が全てである、というのが吾輩の確信である。これは牛である吾輩の、長年にわたる人間観察の成果なのである。

投稿者プロフィール

モウモウ
モウモウ大富豪になっても結局食と旅
吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。

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