
ある日、ご主人が珍しく興奮して言う。「シンガポールの朝を体験してみたい」と。吾輩はだんまりを決め込み、その後に付き従った。場所は東京国際フォーラムの一角。『Ya Kun Kaya Toast』という看板が掲げられていた。

彼は早速、カヤトーストのハーフ(¥350)とテリヤキチキントーストサンドウィッチ(¥800)を注文した。

吾輩は冷静に観察する。平日のお昼時というのに、店内は驚くほどガラガラであった。

しかし、ガラス越しに見える外のデッキには、人間がたくさん集まっている。どうやら、ここの店は「中で食べる」よりも「外に持ち出す」ことを想定しているらしい。
ご主人がひとりでぺちゃくちゃと喋り始める。
ご主人この『ヤクンカヤトースト』はな、1944年から続くシンガポールの老舗なんだぜ。カヤトーストってのは、要するにトーストにカヤジャムってやつを塗った、シンガポールのソウルフードなんだよ。ココナッツベースのあのジャムがたまらんのだ
まずはカヤトーストを食すご主人。


パンはカリッと焼き上げられ、中からは薄黄色のカヤジャムと、白いバターがはみ出している。「甘い、うまい!」とご主人は歓声をあげる。ハチミツとバターが絡み合ったような、独特の甘さとコクがあるようだ。確かに、牛の乳からとれるバターが、ココナッツのジャムと見事に調和している。これは癖になりそうだ。
次に、テリヤキチキントーストサンドウィッチに手を伸ばすご主人。


しかし、彼の手が一瞬止まった。「……思ったより小さい」と呟く。吾輩も覗き込む。確かに、がっつり食えるようなボリュームではない。しかし、中からは照り焼きソースの香ばしい匂いが漂ってくる。ご主人は一口かじり、「うん、味はいい。チキンも柔らかい」と認めつつも、物足りなさそうに最後まで平らげていた。
吾輩は考え込む。1944年というは、随分と昔から、人間はこうして甘いパンを楽しんでいたのだな。戦争の時代を超えて、ココナッツのジャムが人々を和ませてきたのか。そして今、東京の真ん中で、シンガポールの朝食が再現されている。人間の営みとは、時に理解し難いが、どこか愛おしいものだ。


帰り道、ご主人は満足そうにぽつりと言った。「また来よう、この味」と。吾輩は黙ってうなずく。次は吾輩も、こっそり一口味見してみたいものだ。しかし、牛がカヤトーストを食うとは、これもまた一興であろう。
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