運命という名の脚本家は、時として残酷なほどに筆を折る。
この日の我々のプロットは、芳醇なタレの香りに包まれた「鰻」という名の絶頂へ向かうはずであった。しかし、辿り着いた先に待っていたのは、「臨時休業」という無慈悲な四文字。期待という名の風船が、現実の針によって呆気なく弾け飛んだ瞬間である。
隣に立つ写真愛好家のpayaが、レンズ越しに世界を覗くような鋭い、しかしどこか虚脱した目で呟いた。 「……魚。魚が食べたい。それも、焼いたやつじゃなくて、鮮烈なやつだ」
我々は再起をかけ、水道橋にある『鯖匠』へと足を向けた。サバという、青魚界の絶対的エースを求める巡礼である。しかし、そこでも神は微笑まなかった。我々の鼻先で「人数制限」という名のシャッターが降りたのだ。
モウモウ嗚呼、我々は今、都会という名の砂漠を彷徨う流刑人ではないか。鰻に振られ、鯖に拒絶され、存在の根源を揺るがす空腹だけが、確かな重力として我々をこの大地に繋ぎ止めている
結局、我々は重い足取りで飯田橋まで歩くこととなった。妥協ではない。これは「予定調和」からの脱却であり、漂流の果てに辿り着くべき港を探す旅なのだ。そして、そこに現れたのが『築地食堂源ちゃん 飯田橋店』。看板の「築地」という文字が、難破船にとっての灯台のように輝いて見えた。


1. 市場の活気を都心に再現する「源ちゃん」の正体
ここで少々、この「源ちゃん」という港の系譜について記述しておこう。 『築地食堂源ちゃん』を運営するのは、株式会社サイプレス。彼らの哲学は明快だ。「築地や近隣市場から直送される鮮魚を、安く、早く、ボリューム満点で提供する」こと。2000年代半ばから、オフィス街を中心に「定食屋でありながら、夜は市場の活気そのままに酒が飲める場所」としてその版図を広げてきた。
飯田橋店もまた、その例外ではない。店内は、昼下がりの気だるさを吹き飛ばすような、酔狂な御仁たちが何らかの「祝杯」を挙げている姿がチラホラと見受けられる。何に対しての祝杯かは知らぬが、人生のいかなる局面においても、とりあえず杯を乾かすという行為は、虚無に対する最も手軽な対抗手段である。
2. 鯛とサバ、そして中央アジアの幻影


我々はテーブルにつき、自らの欲望をメニューという名の目録に叩きつけた。
payaは『鯛ゴマ丼(¥1200)』。 吾輩は『サバゴマダレ丼(¥1090)』。 どちらも、迷うことなくライス大盛を召喚した。


サーブされるまでの間、payaは秋に一人で敢行した旅の話を始めた。目的地は、中央アジア。



……あの辺りの光は、東京のそれとは粒子が違うんだ
payaは語る。ウズベキスタンのサマルカンド、青の都。砂埃の舞う大地に突如として現れる、イスラム建築の圧倒的な青。そこには、SNSのフィルターでは決して捉えきれない、歴史という名の堆積物が放つ静かな咆哮があったという。





一人で歩いていると、自分が何者でもなくなる瞬間がある。言葉が通じない場所で、ただ『在る』ことの純粋さ。あの孤独は、何物にも代えがたい贅沢だったよ



孤独を贅沢と呼べるのは、帰るべき場所を持つ者の特権だ。だが、旅とは本質的に、自己という名の重力から逃れるための遠心力ではないか。砂漠の風に吹かれながら、彼は何を捨て、何を拾ってきたのだろう
payaの語りに耳を傾けながら、吾輩の思考は未だ見ぬ異郷へと飛翔する。 吾輩も旅に出たくなってきた。それも、誰もが知る観光地ではない、地図の隅にひっそりと記されたような場所へ。 候補地は、
地中海の要塞マルタ島
南太平洋の秘境クック諸島
黄金の国ブルネイ
エメラルドの森に抱かれたスロベニア
そして水没の危機に瀕したモルディブ。



人生とは、己の欲望に背くことのない、マニアックな選択の連続でできているのだと思う。大衆が群がる場所に真理はない。誰も見向きもしない細道にこそ、神は細部(ディテール)として宿っている。吾輩が牛として、この東京で海鮮丼を食していること自体、既に一つのマニアックな哲学の体現ではないか
思考が銀河の果てまで到達しようとしたその時、現実が音を立てて降臨した。
『着丼ドーンだ!!』


3. ゴマダレという名のマリアージュ
目の前に現れたのは、光り輝く刺身の連隊。 payaの『鯛ゴマ丼』は、透き通るような鯛の身が、控えめながらも確かな気品を漂わせている。一方、吾輩の『サバゴマダレ丼』は、青魚特有の力強さが、濃厚なゴマダレという名の鎧を纏っている。


まずは一口。 サバは相変わらず、裏切ることのないうまさだ。脂の乗った身が、ゴマの芳醇な香りと絡み合い、口の中で官能的なダンスを披露する。醤油だけでは到達できない、重層的な旨味。これこそが「ゴマダレ」という錬金術の成果である。



サバよ、お前はどうしてこれほどまでに安定しているのだ。鰻に振られ、鯖匠に拒絶された我々の魂を、お前は無言で抱きしめてくれる。安定とは退屈の別名ではなく、信頼という名の至高の美徳なのだ
大盛のライスは、刺身の旨味を受け止めるための広大な大地となり、我々の胃袋を確実に満たしていく。payaもまた、鯛の繊細な甘みに心打たれた様子で、黙々と箸を進めている。彼の中の中央アジアの砂漠は、今、日本の豊かな海の幸によって潤されていく。


4. 充実した休日の残響:DOUTORという名の聖堂
食後、我々は飯田橋の街を少し歩き、近くのDOUTORへと滑り込んだ。 そこは、都会の喧騒の中にある、最も民主的で最も静謐な聖堂である。
コーヒーの香りに包まれながら、話は再び旅へと戻り、そしてサッカーの戦術論へと分岐していく。payaの語る「旅の構図」と、吾輩が夢想する「マニアックな国々の風景」。そして、ピッチ上で繰り広げられる、偶然と必然が交錯するゲームの行方。
「旅、サッカー、そして食。これらは全て、予測不可能な事象に対して、人間がいかに意味を見出すかという試行錯誤の記録だ。鰻が食べられなかったことも、飯田橋まで歩いたことも、全てはこの充実した会話へと辿り着くための、必要なプロセスだったのではないか」
外は既に、夕暮れの色が混じり始めている。 充実した休日。それは、高価な買い物をすることでも、予定を完璧に消化することでもない。思い通りにいかない状況を、ユーモアと哲学で塗り替え、美味い飯と良質な対話で締めくくること。
我々は店を出た。 飯田橋の駅へと向かう道すがら、吾輩は密かに、クック諸島の青い海に浮かぶ自分を想像した。 次はどこの港へ、あるいはどこの路地裏へ向かおうか。
私は牛である。だが、この日、私は間違いなく「自由」という名の翼を持つ旅人の一人であった。
次は、あなたがこの「源ちゃん」という名の港で、漂流を止める番だ。 そこには、ゴマダレの向こう側に広がる、確かな「幸福」が待っているはずである。
投稿者プロフィール


- 大富豪になっても結局食と旅
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吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。
もっと詳細が知りたいもの好きなあなたはプロフィール欄の記事を読んで欲しい




