
週末の昼時ともなれば、この新宿御苑の片隅にある「SOBA HOUSE 金色不如帰」は、狂気の沙汰――Crazyなほど並ぶので有名な修羅場となる。最後尾が見えないほどの行列は、まるで救いを求める巡礼者の列のようだが、その実、彼らが求めているのは神の赦しではなく、蛤(はまぐり)の出汁である。吾輩に一人でこれに並ぶユウキも、命短し恋せよ牛猫の猶予も、そもそも並ぶという行為を楽しむ余裕もない。並ぶこと自体が、現代人の精神的な貧困の象徴ではないか。時間は金なり、とは人間の言葉だが、彼らは時間をドブに捨てて金を払うのだから、経済学も形無しである。
この店の歴史について、少しばかりの整理しておこう。物語は2006年、渋谷区幡ヶ谷の路地裏で産声を上げたところから始まる。当時はまだ「不如帰」という漢字が読める人間も少なかったろうが、その圧倒的な蛤の出汁で瞬く間にラーメンフリークを虜にした。そして、2018年に現在の新宿御苑前へと移転し、翌年の『ミシュランガイド東京2019』で一つ星を獲得した、ラーメン界の貴族である。ビブグルマン(安くて美味い)ではなく、正真正銘の「星付き」になったのだ。それはつまり、ラーメンがB級グルメという階級闘争に勝利し、上流階級の晩餐へと躍り出た瞬間でもあった。
そこで吾輩が採った戦略は、資本主義の申し子たる人間の**「会社の帰り」という時間に合わせ、人波が引いた隙間を突くことだった。夜の帳が降りる直前に急いで直行すれば、さすがにそれほど並ばなくもいいのではないか**という計算である。 読みは当たった。 店の前には数人の待ち客がいるのみ。昼間の地獄絵図が嘘のようだ。やはり、大衆が労働という鎖に繋がれている時間こそ、真の自由(フリーダム)が存在する。
我がご主人と入店。券売機と対峙する。 主人は震える指で「真鯛と蛤の塩そば」に惹かれつつも、基本にして至高の「そば(醤油) ¥1350」のボタンを押した。 高い。たかがラーメン、されどラーメン。 主人の財布の紐が緩みっぱなしで、最近のグルメツアーが多すぎて財布がだいぶピンチになってきているのは知っている。このままでは、あの貧困の美学者・フィリップと同じ境遇を相哀れむことになってしまう。オーマイガー、これは早急な是正が必要だ。しかし、ミシュランの星の前では、金銭感覚など無力化されるのがオチである。
店内は、ラーメン屋というよりは割烹、あるいは隠れ家的なバーのようだ。カウンターの白木が眩しい。厨房では、白い調理服に身を包んだ職人たちが、外科手術のような精密さで麺を扱っている。
カウンターに座り、数分間の静寂。
着丼ドーンだ!!

目の前に現れたのは、もはや食品サンプル以上に整った、美術品のような一杯である。 琥珀色のスープ、低温調理されたチャーシュー、そして中央に鎮座する黒いペーストと緑の粉末。 これは、鴨とハマグリをベースとしたトリプルスープに、黒トリュフやピスタチオのソースといった異国の装飾を施された、極めて高貴な麺料理である。
主人は、まずスープを一口啜り、天を仰いだ。 「……深い。海だ。いや、森か?」 詩人ぶっているが、単に味の情報量過多で脳がバグっているだけである。

吾輩は静かに考察する。 確かに旨い。猛烈な蛤の旨味が、動物系(鴨や豚)のコクの下支えを得て、舌の上でビッグバンを起こしている。そこへ「ポルチーニ茸のデュクセル」や「黒トリュフオイル」が溶け出すことで、和の出汁が一気にフレンチのスープへと変貌を遂げる。さらに、アクセントとして散らされたピスタチオやインカベリーのソースが、味覚の迷路へと誘う。 トリュフとハマグリが織りなす香りの三重奏は、この一杯が「ラーメン」という下賤な出自から脱却しようともがく、向上心のメタファーだ。本来、中華そばとは労働者の塩分補給であったはずが、ここではブルジョワジーの嗜好品へと昇華されている。
「麺もすごいぞ、全粒粉入りで香りが……」 主人がブツブツと言いながら、細麺を啜り上げている。春よ恋、などの国産小麦をブレンドした自家製麺は、しなやかでありながら、スープという強敵に負けないコシを持っている。

しかし、食べ進めるうちに、ふと冷静な疑問が湧いた。 「でもあんなに並ぶほどなのか?」
誤解しないでほしい。味は絶品だ。文句のつけようがない。 だが、昼間のあの長蛇の列。2時間、3時間を費やしてまで、この一杯を求める行為は、果たして合理的なのか。 これは超行列店の宿命かもしれんが、並ぶコストと時間、タイパ、コスパをつい計算してしまうのは、資本主義に毒された吾輩の良き習慣だろうか、それとも悪い習慣だろうか。
美味を求めるがゆえに、人生の貴重な時間を浪費する。これこそが、現代文明におけるアイロニーである。 蛤は、その堅い殻の中に身を守っている。人間もまた、「ミシュラン」や「行列」という堅い殻(権威)の中に、自身の味覚への自信の無さを隠しているのかもしれない。
「いやー、美味かった。並ばずに食えたのが一番のご馳走だな」 主人が満足げにスープを完飲した。丼の底には、「金色不如帰」の文字。 そう、結局のところ、最大のスパイスは「優越感」なのだ。他人が数時間並ぶものを、スマートに食す。この快感の前には、1350円など安いもの……いや、やっぱり高いな。
店を出ると、新宿御苑の木々が夜風に揺れていた。 次はもっと安い、それこそフィリップが喜ぶような、脂ぎったチャーハンでも食いに行こう。吾輩の胃袋(第一胃)が、もっと野蛮なカロリーを求めている。トリュフの香りは、吾輩には少し上品すぎたようだ。
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