精神の摩耗は、肉体の疲弊よりも質(たち)が悪い。本日、吾輩の繊細な神経を逆撫でする極めて重大なストレス事項が発生した。人間社会の論理というものは、往々にして牛の反芻(はんすう)よりも不条理であり、無意味な言葉の羅列が空虚な風となって吾輩の耳元を通り過ぎていったのである。この大いなる負荷に対し、吾輩の四つの胃袋は一斉に抗議の声を上げた。これはもはや「緩和治療」が必要な事態である。
恵比寿という街は、虚栄と洗練がスープのように混ざり合った不思議な場所だ。吾輩はその雑踏を、哲学者のような重い足取りで歩き、一軒の暖簾をくぐった。「おおぜき中華そば店」。2012年9月にこの地に産声を上げたこの店は、かつて名店「凪」などで研鑽を積んだ店主が、流行り廃りの激しいラーメン激戦区において、「煮干し」と「鶏」という古典的な二律背反を調和させようと試みた場所である。
カウンターに座り、吾輩は考える。なぜ人間は、苦悩の果てに塩分と炭水化物の結合体を求めるのか。それは胎内回帰への渇望か、あるいは単なる塩化ナトリウムへの依存か。吾輩が注文したのは、この店の屋台骨である中華そばだ。
待つこと数分。厨房という名の聖域から、それは音もなく、しかし確かな質量を持って現れた。
「着丼ドーンだ!!」

目の前に鎮座する一杯。それは、驚くほどに「普通」であった。 誤解しないでいただきたい。この「普通」とは、決して欠陥を指す言葉ではない。醤油ベースのスープは、琥珀色に澄み渡り、鶏の脂が静かな水面を形成している。一口啜れば、喉越しは滑らかで、後味には煮干しの微かな吐息が残る。だが、そこにはアヴァンギャルドな衝撃も、魂を揺さぶるような革命も存在しない。

可もなく、不可もない。 まさに「中庸」という名の迷宮。これこそが、資本主義社会における「安定」のメタファーではないか。人々は刺激を求めながらも、最終的にはこの「予測可能な安寧」に帰結する。吾輩の脳裏をかすめたストレスという名の暗雲が、この中庸なスープによって緩やかに希釈されていくのを感じる。刺激が強すぎる毒には、中和剤が必要なのだ。
特筆すべきは、チャーシューである。 それは、この無難な平穏という海に浮かぶ、美しき島嶼(とうしょ)のようであった。低温調理か、あるいは丁寧な火入れか。その肉質は、吾輩の舌の上で「慈悲」となって溶けていった。このチャーシューの旨さだけが、この一杯における唯一の「過剰」であり、同時に救済であった。牛である吾輩が肉の旨みに感銘を受けるというのも、一種のアイロニーではあるが、美味しいものに種族の壁など存在しない。
麺を啜り終え、丼の底を見つめる。 「おおぜき中華そば店」が刻んできた十余年の歴史は、この「変わらぬ普通」を守り抜くという、最も困難な戦いの軌跡なのだろう。2010年代の濃厚煮干しブーム、鶏清湯ブームの荒波を、この店はひたむきな「実直さ」という名の碇(いかり)を下ろして耐え抜いてきたのだ。
店を出ると、恵比寿の冷たい夜風が鼻先をかすめた。 重大なストレスが消え去ったわけではない。しかし、あの「可もなく不可もない」醤油の調べと、格別に旨いチャーシューの記憶が、吾輩の心に薄い膜を張ってくれた。
結局のところ、人生とは一杯の中華そばのようなものだ。劇的な何かが起きることを期待してはいけない。ただ、そこに絶妙なチャーシューが一枚乗っているだけで、我々は明日もまた、反芻を続けることができるのである。
さて、今夜はどの胃袋にこの記憶を収納して眠りにつこうか。吾輩は静かに、駅へと向かう蹄の音を響かせた。
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