人間という生き物は、鉄の箱(山手線)に身をゆだね、決まった軌道の上をぐるぐると周回している。そして「すべての駅に降り立ったことがある」という根拠のない自負を抱きがちだ。

そう言えば、この巨大な環状線の内側において、吾輩は駒込という駅に一度も降り立ったことがなかった。思い返してみるに、山手線で未だに自慢の蹄(ひづめ)を下ろしたことがない駅は、おそらく巣鴨、日暮里、鶯谷くらいのものであろう。知性の空白地帯は、こうして不意に訪れる。だが、ここ駒込は駅から六義園が目と鼻の先らしい。後日、大名庭園の緑でも眺めながら、我が4つの胃袋を清めるために訪れてみるのも悪くない。
今回の道連れは、友人のフィリップである。
彼は常に「金がない」という状態がデフォルト(初期設定)として組み込まれている、実に人間らしい人間だ。警備の仕事に就いており、夜勤が多く、慢性的な疲労がその顔面に幾重もの層をなして蓄積している。家庭には妻と大学生の息子がおり、資本主義の重圧をその背に一身に背負っている男だ。
その日のフィリップは幸いにも夜勤明けではなかったので、表情自体は幾分晴れやかであった。しかし、長年の夜勤によって毛穴に染みついた、まるでタールのようにこびりついた疲労の塊のような臭い――疲労臭とでも呼ぶべき悲哀のオーラ――は隠しきれていない。
フィリップモウモウ、安くてうまいものを頼む。金がないんだ
安くて美味い店を探すこっちの身にもなってほしいものである。牛を無料のグルメ検索エンジンか何かと勘違いしているのではないか。
吾輩がそんな彼の切実(かつ横暴)なリクエストに応えて連れてきたのが、駒込の路地裏に鎮座する「一〇(いちまる)そば」である。
【一〇そばの歴史とFACT】
ここで、この店が立ち食いそば界において築き上げてきた異端の系譜を、事実(FACT)の表として整理しておこう。
| 年月 | 出来事(FACT) |
|---|---|
| 1970年代〜 | 駒込の地で長年愛された伝説の立ち食いそば店「一心の会(一心そば)」が営業。 |
| 2013年11月 | 「一心そば」の味わいと志を継承する形で、現在の「一〇そば」がオープン。 |
| 現在 | 日暮里の名店「一屋(いちいや)」の系譜を引きつつ、極太ジャンボゲソ天や独特の太麺で独自の進化を遂げる。 |
この店の最大の特徴、つまりウリは、丼を覆い尽くす圧倒的なボリュームの揚げ物(ゲソ天や唐揚げ)と、他店を突き放す「極太の蕎麦麺」、そして関西人が見たら絶句するであろう漆黒の出汁である。


吾輩も当然、その名物の「極太麺」を胃袋に収める気満々で券売機の前に立った。しかし、人生とは常に不本意の連続である。何をどう押し間違えたのか、吾輩はうっかり「普通麺」をオーダーしてしまった。さらに追い打ちをかけるように、狙っていた名物の唐揚げはまさかの売り切れ。仕方なく「から揚げB」なる、謎の代替オプションをオーダーすることとなった。


不本意につぐ不本意。人間は時に残酷な罠を仕掛けてくる。
カウンター越しに丼が差し出される。
『着丼ドーンだ!!』


丼の中で、暗黒の海が静かに波打っていた。
それにしても、汁が真っ黒である。光を一切反射しないその液体は、まるでブラックホールか、あるいは夜勤の警備員が覗き込む深夜の闇のようだ。一口飲んでみると、見た目を裏切らない強烈な醤油の塩分とカツオの風味が、味覚のニューロンをダイレクトに殴りつけてくる。かなり濃い。
吾輩がその濃度と、自分の注文ミスというアイロニーに思索を巡らせている横で、フィリップは何も言わずに黙々と蕎麦を口へ運んでいた。安さゆえの無我夢中か、あるいは疲労で味覚の閾値が破壊されているのか。彼はまるで機械のように麺を咀嚼している。
やがて、ズルズルと音を立てながら、フィリップによる「資本主義の不平等」に対する愚痴が始まった。



なぁモウモウ、なんで俺が夜通し立って警備してんのに、息子の学費とローンで手元に一銭も残らねぇんだ? 世の中の金持ちはクーラーの効いた部屋でパソコン叩いてるだけで、俺の年収の何倍も稼いでんだろ。おかしくねぇか?
吾輩は黙って漆黒のスープを見つめた。





フィリップよ。お前がいま流し込んでいるその汁を見ろ。この「一〇そば」のスープは、まさに過酷な労働で汗を流し、ナトリウムを枯渇させた労働者たちの身体を急速に補修するために進化を遂げた、資本主義の末端のソウルフードなのだ。
社会の構造を呪いながらも、フィリップは資本主義の権化とも呼べそうな真っ黒なスープを、自身の真っ黒な心のような胃の腑へと、ドクドクと流し込んでいく。その光景は、どこか神聖であり、同時にひどく哀愁を帯びていた。社会の不平等を嘆く彼の胃袋を救っているのが、わずか数百円で買えるこの過酷なほどに濃い一杯であるという皮肉。



……まぁ、でもこの店、安くて美味いから助かるわ
スープを飲み干したフィリップが、少しだけ顔のタールを薄くして笑った。
不本意な普通麺とから揚げBを平らげた吾輩も、静かに丼を返却口へと戻した。駒込の駅前へ出ると、どこか懐かしい風が鼻先をかすめた。いつか六義園の緑を愛でるとき、吾輩は再びこの漆黒の小宇宙を思い出すのだろう。資本主義の闇を胃袋で受け止めながら生きる、フィリップのような愛すべき人間たちの姿とともに。
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投稿者プロフィール


- 大富豪になっても結局食と旅
-
吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。
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