吾輩はついにスマホを手に入れてSNSデビューを果たすのだが…

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吾輩はある日牧場の片隅でのんびり草を食んでいたが、気づけば人間社会の波に飲まれていた。何の因果か、主人にスマホを手渡され

ご主人

モウモウ君もスマホを使うと人生が変わるかもしれないよ

だと言われたその日から、吾輩の物語は奇妙な展開を迎える。

人間は何故SNSにはまるのか?

主人のスマホ指導は意外にも親切だった。「牛もこれでインフルエンサーになれる!」と豪語されるが、吾輩には理解できない。人間という生物は、なぜ顔写真を繰り返し撮り、他者に見せびらかしながら「いいね」を求めるのだろうか?吾輩が初めて牧場の夕焼けを撮影して投稿した際、コメントがついた。

「すごい!感動の夕焼け!」 「どのアプリで加工したの?」

加工などしていない。自然そのものだ。それにしても、人間の「いいね」欲求は、草を食む喜びに勝るものなのか。吾輩がいくらスクロールしても草の美しさは変わらない。それならばスマホを使う意義などないではないか。

自然と戯れる方が動物らしいのでは?

ある晴れた日、吾輩はスマホをそっと草むらに置き、自然と戯れることにした。風が吹き渡り、青空が広がる。山の向こうでは鳥の声が聞こえ、草の間には小さな虫たちが舞う。吾輩は静かに草を食み、自然の恵みを感じながら一日を過ごした。だがその夜、人間たちは言った。

「君、今日の投稿はないの?フォロワーが心配してるよ。」

心配する必要などない。吾輩はここにいる。自然の中で生きることこそが本当の動物の姿なのだから。しかし人間は、どうやらそれを忘れてしまったらしい。吾輩が一日中ただ草を食んでいただけでも、何か「意味」を求めているようだ。

所詮人間も動物である

吾輩はふと思う。人間も動物だという事実を忘れているのではないか、と。人間たちはスマホを握りしめ、脳をフル回転させながら情報を追いかける。それが進化した証拠だと彼らは言う。しかし、吾輩にとってそれはただの迷子である。情報の海を泳ぐうちに本来の動物的な感覚を失い、草原の風を感じる術すら忘れてしまったのだ。

時折、主人が「今日はリラックスの日だ!」と言いながらSNSを見続けている姿を見て、吾輩は思わず首を振る。「人間らしいリラックスは海や山や自然の中に身を委ね、本来の自分を取り戻す行為と信じて疑わない。それが出来ない日は読書をしたり、音楽を聴いて心を落ち着かせたり、日頃の疲れをとるべく昼寝をしたりするのがリラックスなのではないだろうか?」と教えたくなるが、人間たちはそれを「退屈」と呼び、恐れているらしい。

SNSを見た10分後には何の動画をみたかも忘れるような行為が本当にリラックスと呼べるのだろうか?無意味なノイズという情報を頭に叩き込んで自身をより疲弊へと導いている行為としか思えてならないのだ。

スマホを所有する意義とは?

吾輩はスマホをじっと見つめる。画面の向こうには色とりどりの世界が広がっている。投稿すれば何百もの「いいね」が付く。だが、これが吾輩の人生の目的だろうか?否、草を食むことに勝るものはない。スマホはただの道具である。それを使って何を成し遂げるのかが問題だ

もし吾輩がスマホを使うのなら、それは人間たちに草の美しさを伝えるためだろう。夕焼けの輝き、草原の風、虫たちの声。それこそが吾輩の使命である。だが、この使命を果たすためにスマホは必要だろうか?吾輩にはまだ結論が出ていない。

最後に

吾輩は牛である。人間のような生活を試みながらも、動物としての本質を忘れない。人間たちがSNSに夢中になり、草原を忘れてしまう中、吾輩はどこか皮肉を感じながら、静かに草を食む。そして、スマホで夕焼けの写真を撮りながら、人間たちに問いかけるのだ。「君たちの『いいね』の先には、何があるのか?

吾輩は今日もモーモーと人生を歩み続ける。スマホを片手に、いや蹄に。さて次は何を投稿しようか――草、それとも皮肉か。

投稿者プロフィール

モウモウ
モウモウ大富豪になっても結局食と旅
吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。

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