牛の目から見た現代社会~不可解な儀式に囲まれて~

  • URLをコピーしました!

この広大な草原――いや、コンクリートと鉄で覆われた人間たちの世界。私は、ただのウシである。だが、眼の良さには自信がある。人間たちは「視点を変える」ことが大事だというが、四つ足の高さから見下ろす都市の風景は、なかなかにシュールである。

朝。無数の人間が電車という長い缶詰に押し込まれていく。中では誰も口を開かず、スマホという魔法の板に魂を吸われている。彼らは「通勤」と呼ぶ儀式に従い、決して逆らわない。私にとっては、干し草の山に突進するほうがよほど論理的だ。

オフィスという牢屋に到着すると、人間たちは「会議」と呼ばれる謎の集会を開く。内容はよくわからないが、たいてい誰も草を食べない。効率を求める割には、誰も動かない。いったい何を反芻しているのか不明だ。ウシなら、草を咀嚼しながら考える。人間は、言葉を咀嚼して飲み込まずに流していく。

昼。「ランチ」タイム。これは一見、草食動物として好感が持てる行為だ。だが、彼らの食べ物は七色に光り、たまに発音しづらい名前がついている。サラダを選びながら、カロリーを気にする姿は滑稽だ。私たちウシは、栄養は胃に任せる。体重より満足感こそが草の美学。

夕方になれば、今度は「飲み会」という儀式。不思議だ。働くために集まり、疲れ果ててさらに集まる。液体でテンションが上がり、翌日にはその記憶を消し去る。「お疲れ様でした」と繰り返す彼らに、私は問いたい。誰がお前たちを疲れさせたのか、と。

そして夜。無数の灯りがともり、画面から光が漏れる。人間は「SNS」と呼ばれる牧場に集まり、承認の草を求めて鳴く。「いいね」の数を気にする様は、まるで群れから外れないための鳴き声のようだ。ウシならモーッと叫ぶだけで十分なのに、人間は絵文字と自撮りで存在を証明しようとする。

私はただのウシである。だからこそ、疑問を持つ。なぜ彼らはこんなに複雑な儀式を繰り返すのか。草を食べるという単純な喜びを忘れて、いつも何かを追い続けている。人生というレースのゴールが見えないまま、蹄なき足で駆け抜けていく。

もし人間がもう少しウシ的に生きられたなら、世界はもう少しのんびりするかもしれない。反芻する時間も、草の香りを感じる余裕も、きっとそこにある。


投稿者プロフィール

モウモウ
モウモウ大富豪になっても結局食と旅
吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。

もっと詳細が知りたいもの好きなあなたはプロフィール欄の記事を読んで欲しい

にほんブログ村:押してもらえると嬉しいです

東京食べ歩き:読んだ印に押してもらえると拡散します

旅行ブログ:読んだ印に押してもらえると拡散します

カフェ:押してもらえると記事が拡散されるので嬉しいな

吾輩を押してもらうと喜びます

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

友達にもシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次