本来、吾輩の午後の予定は、代々木八幡にあるスパイスカレーの名店「スパイスポスト」を訪れることであった。しかし、世の常とはままならぬもの。吾輩が店の前に到着すると、無情にも「本日は休業」の札がぶら下がっていた。吾輩の腹は、すでにスパイスの海を求めて鳴動している。このまま引き下がるわけにはいかない。そこで、急遽予定を変更し、新宿へと向かうことにした。目指すは「チキュウマサラ」。
新宿駅に降り立ち、雑踏をかき分けながら歩く。目当ての店は、吾輩の行きつけである魚介ラーメンの「鈴蘭」の隣辺りにあるらしい。しかし、その場所にたどり着いてみると、実にわかりづらい。古びた雑居ビルの2階。外階段を上がると、そこはただの薄暗い廊下で、壁にはドアがひとつあるだけ。看板も何もない。初見でこの店にたどり着くには、それなりの勇気と、店への強い信仰心が必要だろう。吾輩は、これこそが「隠れ家」というものの本質であると、勝手に考察した。

時刻は13時過ぎ。それでもドアの前には2組の先客が並んでいる。吾輩は、その列に静かに加わった。皆、一様にスマホを眺め、このドアの先に広がる未知の味を想像しているようだ。待つこと10分。ついに吾輩の番が来た。
狭いドアを開けると、店内もまた狭い。奥に細長いカウンター席が6席のみ。マスターとアシスタントの計2名で切り盛りしているようだ。カウンターに座ると、目の前にはスパイスの瓶がずらりと並び、異国情緒を醸し出している。
メニューは、その日のカレーが1種類から3種類まで選べる仕組みになっていた。 ・1種盛り ¥1,700 ・2種盛り ¥1900 ・3種盛り ¥2,500 どれも個性的なカレーばかりだ。吾輩は、その日の特別メニューである「山椒のチキンカレー」に強く惹かれ、迷うことなく1種盛りを注文した。
注文を終えると、マスターは無言でグラスを差し出した。水かと思い口に含むと、シュワっとした刺激が舌を襲う。炭酸水だった。これは嬉しいのだ。吾輩は最近、この無味無臭の刺激に病みつきになっており、日常的に炭酸水を愛飲している。ただの水ではなく、炭酸水を出すという心遣い。この店の本質的なこだわりは、すでに始まっているのだと感じた。
待つことしばし。店内の静謐な空気の中で、吾輩は黙々と運命のカレーを待つ。そしてついに、その瞬間がやってきた。
着丼ドーンだ!!

目の前に現れたのは、まるで芸術作品のようなカレーだ。まず目を引くのは、そびえ立つ米のタワー。吾輩の顔の高さほどあるのではないか。そのタワーの頂上には、レモンのゼリーのようなものがちょこんと乗っている。米は、日本米とスリランカかパキスタンだかの長粒種米をブレンドしたもので、パッと見は白米と玄米が混ざっているようにも見える。これは間違いなくインスタ映えする逸品だろう。
そしてその周りを彩る、こだわり抜かれた付け合わせたち。 ・マンゴーチャツネ ・さつまいもビーツ ・小玉ねぎピクルス ・ビリザーブドレモン これらの付け合わせが、カレー全体に奥行きを与えている。その数、なんと10種類以上。一つのカレーでこれほどの味のグラデーションを楽しめる店は、そうはないだろう。

メインのカレーは、山椒が効いたチキンカレー。口に運ぶと、まず山椒のピリッとした刺激が舌を支配し、その後にチキンの旨みがじわじわと追いかけてくる。そして、米。長粒種米特有のパラパラとした食感が、カレーと完璧に絡み合う。この米のブレンドこそが、このカレーを完成させているのだ。
付け合わせの野菜は、パクチーのようだ。吾輩の職場の仲間は、パクチーを「カメムシの味だ」と嫌悪していたが、この店のパクチーは、それほど癖が強くない。むしろ、カレーのスパイスと合わさり、爽やかな香りを添えている。世間のパクチー嫌いも、このパクチーならば許容できるのではないか。
吾輩は、一皿のカレーからこれほどの感動と考察を引き出すことになるとは、夢にも思わなかった。店の分かりづらい立地、狭い店内、無言のマスター。それら全てが、この一皿のカレーの完成度を高めるための演出のように思えた。
ごちそうさまでした。このカレーは、まさに「チキュウマサラ(地球のマサラ)」という名にふさわしい、壮大なスパイスの旅であった。
投稿者プロフィール

- 大富豪になっても結局食と旅
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吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。
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