
前回、築地本願寺で心を清めたのち、どういう風の吹き回しか、築地の市場通りをブラブラすることにしてみた。無論、吾輩のような草食動物が魚市場を徘徊するなど、食物連鎖の観点から見れば実に滑稽極まりない話である。
しかし人生、いや牛生というものは皮肉なものである。本願寺で悟りを開いたつもりの吾輩が、物欲の巷である市場街を闊歩するとは。まさに「猫に小判」ならぬ「牛に築地」といったところか。
消失したラーメンの井上という存在への哲学的考察
築地をウロウロしていると、昔確かラーメンの井上という店があったと思うのだが、探したが今は無くなってしまったのか、見当たらなかった。これは実に深遠な問題である。記憶というものは、果たして実在したものの痕跡なのか、それとも吾輩の牛頭が勝手に作り上げた幻想なのか。
店が無くなったということは、そこに確かにあった「味」という現象も同時に消失したということである。しかし、その味を知る者の舌の記憶の中では、今でも醤油の香りが漂っているのではないか。吾輩は反芻動物であるがゆえに、この記憶の反芻について特に深く考えざるを得ない。
さのきやのマグロヤキという形而上学的存在
そんな哲学的思索に耽っていると、「さのきや」という看板が目に飛び込んできた。タイヤキならぬ、マグロヤキなるものを発見したのである。これは実に興味深い文化的現象である。

さのきやのはたい焼きではなく「マグロ焼き」。まぐろのまるまるとした流線型のボディの形にこだわった『本マグロ』の餡は、直火銅窯で炊いた、十勝産小豆の最高級品種を使用。なんと、十勝産小豆の餡は、無添加にこだわり、甘さを抑えています。サクサク生地の、本マグロ(小倉あん)・キハダマグロ(カスタードク…という具合である。
考えてみれば、これは実に巧妙な商業的メタファーである。築地という「マグロの聖地」において、そのマグロの形を模した菓子を提供するとは。まさに「形式が内容を規定する」というヘーゲル的弁証法の具現化ではないか。しかも築地市場といえば、1935年から2018年まで83年間にわたって使用されていた公設の卸売市場で、新鮮な魚が売買されて、近くには新鮮なとれたての魚が食べられる飲食店やお寿司屋さんがいっぱい。また朝早いこの街の働く人たちのおやつとしても、愛されてきた「さのきや」という歴史的背景を持つ。
吾輩は一頭、いや一個の「本マグロ」を購入した。外皮はパリパリ、中身は程よい甘さの小倉餡。

これを咀嚼しながら吾輩が思ったのは、「なぜ牛である吾輩がマグロの形をした菓子を食べているのか」という存在論的問いである。食べる者と食べられる者の形象の混在。これこそ現代社会の混沌を表しているのではないか。
築地魚河岸における資本主義的観察
腹ごなしに、築地魚河岸を見て回ることにした。築地魚河岸は小田原橋棟と海幸橋棟の2棟で構成され、1階には水産や青果の仲卸などの店が軒を連ねています。新鮮で美味しい目利きの厳選食材をお求めに是非ご来場ください。とのことである。

魚河岸に足を踏み入れた瞬間、吾輩の牛鼻は様々な海の香りに包まれた。鮮魚や青果といった生鮮食材のほか、乾物や干物、漬け魚などの加工食品を扱う専門店が入居している。光景は、まさに資本主義経済の生々しい現場である。

とにかくマグロや、青魚がどれもこれも美味しそうで、ついついいろいろ買って帰りたくなる。しかし待て、吾輩は牛である。草以外に何を求めるというのか。これは明らかに消費社会における欲望の喚起という現象に他ならない。商品の陳列という視覚的刺激が、本来の食性を超越した購買欲を生み出すのである。

マグロの赤身の美しさ、サバの青い背中の輝き、それらが整然と並ぶ様は、まるで海の宝石箱のようである。売り手と買い手が活発に交渉を重ねる様子を見ていると、ここが単なる商業施設ではなく、一つの小宇宙であることがわかる。魚という生命体が商品として流通する過程で、どのような価値変換が起こっているのか。吾輩の牛頭では理解しきれない複雑な経済システムがそこにはあった。
3階フードコートという現代的食の劇場
小田原橋棟の3階には「市場飯(いちばめし)」が食べられるフードコート形式の魚河岸食堂や、食のイベントを開催するキッチンスタジオ、イベントスペースも設けられています。3階のフードコートは、さながら現代版「食の劇場」である。様々な海の幸が調理され、人々の胃袋に収まっていく様子は、生と死、自然と文化が交錯する舞台装置のようだった。

吾輩のような草食動物にとって、この光景は実に複雑な感情を呼び起こす。美味しそうだと思う気持ちと、本来の食性への背徳感が同居しているのである。これこそが現代社会における「食の疎外」というものではないだろうか。
存在の軽やかさについての最終考察
築地魚河岸での体験を終えて、今度はここに買い物に来ても面白いかと思った近旅だった。しかし、果たして「面白い」とは何なのか。吾輩にとっての面白さと、人間にとっての面白さは同じなのだろうか。
この築地散歩で吾輩が得たものは、マグロヤキという物理的な満足だけではない。それは、自分という存在の相対性についての深い洞察である。牛である吾輩が魚市場を歩き、マグロの形をした菓子を食べ、海の幸に囲まれて哲学的思索に耽る。この一連の行為がいかに荒唐無稽であるか。

しかし、だからこそそこに「存在の軽やかさ」があるのではないか。本願寺で清めた心で市場の俗世を歩く。草食動物が魚河岸で物思いに耽る。この矛盾こそが、現代を生きる我々、いや我牛にとっての真の自由なのかもしれない。
築地の街を後にしながら、吾輩は考える。次回はどんな場所で、どんな哲学的発見があるだろうか。吾輩の牛生は、まだまだ続くのである。無論、草を食みながらではあるが。
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