【銀座の異物】大衆割烹 三州屋 銀座本店の「昭和43年」から続くアイロニーを牛の吾輩が考察する – 刺身丼と資本主義の鎮魂歌

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銀座の路地裏、高慢なブランドのロゴが夜闇に溶け出す午後7時頃、生真面目な友人マロン君と共に大衆割烹 三州屋 銀座本店の暖簾をくぐった。彼は、高級を気取ったこの街で、財布の紐を緩めるという行為に、すでに一種の背徳感を覚えているようであった。

マロン君は数字と合理性の信奉者である。その彼にとって、銀座で「大衆割烹」という看板を掲げることが、いかなる経済的パラドックスを内包しているのか、真剣に考察している様子が伺える。彼の眉間に刻まれた皺は、今夜の酒代が銀座価格なのか、それとも大衆価格なのか、その真理を問うているかのようであった。

この店こそ、銀座という名の巨大な舞台に投げ込まれた、一匹の牛のような異物である。

この「異物」の歴史を紐解くことで、この街の虚飾に対する痛烈なメタファーが見えてくる。三州屋の源流は、戦前から続く蒲田の老舗にある。しかし、銀座本店の暖簾を掲げたのは、**昭和43年(1968年)**のことだ。創業者の岡田正之氏は神田の三州屋で修行を積み、当時まだ賑わいが少なかった銀座一丁目・二丁目、つまり中心地から少し外れた静かな袋小路で独立を果たした。

この立地の選択こそが、この店の最大の戦略であり、ウリを形成する基盤となった。当時の客は、丸の内(現・東京国際フォーラムあたり)にあった都庁の職員や、昼夜を問わず働く新聞社の記者たちであったという。彼らは、大通りに面していないこの店を隠れ家として利用し、世間の目を気にせず、定時上がりや不規則な勤務の合間に酒を嗜んだ。

この店は、単に安いだけではない。割烹の技術を大衆的な価格で提供し続けるそのウリは、資本主義の構造そのものへの静かなるアイロニーだ。 豊洲(かつては築地)から毎日仕入れる新鮮な魚介を、職人が手間を惜しまず調理する。そのクオリティは銀座の「割烹」に匹敵しながら、価格は「大衆」の枠に留まる。これは、品質と価格が比例するという現代社会の「常識」を、静かに、しかし徹底的に裏切る行為である。

さらに、この店が昼の11時半から夜の22時まで、休憩時間なしで通し営業(アイドルタイム無し)をしていたという事実もまた、大衆への究極の奉仕を象徴している。銀座の高級店が優雅な昼休みを取る横で、この店は24時間稼働する都市の歯車に合わせて働き続けた。この「休まない店」こそが、背広姿の人間たちが安心して立ち寄れる、昭和の奥ゆかしい戦士たちのための聖域だったのだ。

しかし、吾輩とマロン君が入店した途端、その哲学は居酒屋状態の喧騒に飲み込まれた。飛び交う注文、酒の匂い、そして人間たちの疲弊した笑い声。

吾輩の観察によれば、この喧騒こそが、人間たちが「大衆」の仮面を被って行う、集団セラピーである。彼らは、普段の役職、肩書き、そして銀座という街が要求する虚飾をここで脱ぎ捨てる。素っ気ないがスピーディな接客は、マニュアル化された笑顔よりも、むしろ人間味を帯びており、それは「煩わしい社交」を嫌う、疲れた魂への無言の配慮である。

マロン君は、この「大衆」という名の圧倒的な熱量に気圧され、目を泳がせている。

マロン君

すごい熱量ですね。これが、この街の裏側で脈打つ真の経済活動なんでしょうか?

マロン君は呟く。彼はこの喧騒の中で、自分の生真面目な個性が、いかに「大衆」という名の波に容易く消されてしまうのかを恐れているようだ。

吾輩のオーダー? おそらく刺身丼のようなものだったと思うが、この場の濃密なメタファー(社会の底流)に意識が奪われ、その実体を明確に覚えていない。記憶の曖昧さこそが、この店の「力」だ。人間は、ここで一時的に自我を忘れ、大衆という集合体に溶け込むことで安寧を得るのだ。

人間にとっての「食事」は、単なる栄養補給ではない。それは、自己確認の儀式である。だが、この三州屋では、その儀式すらも曖昧になる。何を食ったかではなく、「ここで食った」という行為そのものが、彼らにとっての解放なのだ。

そして、ついに。 厨房の奥から威勢の良い声と共に、吾輩の注文したものが運ばれてきた。

やがて、吾輩の目の前にそれは運ばれてきた。着丼ドーンだ!!

目の前に広がるは、瑞々しい海の幸の集合体。大衆割烹の名に恥じぬ、豪華にして実直な盛り付けだ。マロン君は、そのボリュームと魚の艶やかさに目を見張る。

マロン君

このマグロの赤、イカの白! これが、銀座の路地裏で静かに営まれてきた、真の『割烹』の技術だ。銀座の他の店が、客の財布の中身を問うている間に、この店は客の胃袋と、疲労の度合いを問うているのだ。

マロン君はそう熱弁する。この一皿は、銀座という虚構の街で、まっとうな労働を続けた人間だけが許される、正義の報酬なのだ。

熱気と湿気に包まれた一皿。これは単なる食事ではない。それは、競争と虚栄の最前線で疲弊した魂への、一時の鎮魂歌である。人間たちよ、その倒錯した満足を、ゆっくりと味わうがよい。吾輩は、ただ静かに、その光景を咀嚼する。

吾輩の食った「刺身丼のようなもの」は、確かに美味であった。しかし、その真の価値は、鰻重の「オキシトシン」とは異なる。この店が提供するのは、**「自己肯定感」**である。

「お前はまだ、銀座という戦場で戦い続けられる」と、この大衆割烹の騒音と美味が、客の背中を押している。彼らは、明日への活力を得るために、自己を忘却する儀式を必要としている。

吾輩(牛)は、人間が作り出したこの奇妙な社会構造の観察者として、三州屋の暖簾を見つめる。高級と大衆、虚構と現実。その狭間に立つこの店こそ、銀座という街の最も深遠で、最も正直なポートレートなのであった。

投稿者プロフィール

モウモウ
モウモウ大富豪になっても結局食と旅
吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。

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