吾輩は牛である。今日もまた、この新宿という巨大な代謝器官の最深部で、人間という名の労働者たちの食欲と、その裏にある哲学を観察している。

今日のランチは旧友と一緒なのだ。彼女はtomoさん。美味しいものに目がなく、会社のストレスという名の都市の毒素を、美食によって中和しようと試みる、現代の錬金術師である。最近一人食す内省的なグルメ探訪というものをやっていないのだが、これはこれで良きかな。人間は孤独な考察だけでなく、共食という名の「共犯関係」によっても、真理に近づけるのかもしれない。
狭隘なる「通過儀礼」の空間
目的地である「しんぱち食堂」は、新宿の喧騒の中に、まるで時間の裂け目のように小さく、細長く存在していた。それは、この都市の不動産価格という名の神に対する、痛烈なアイロニーだ。
**tomoさんは新宿しんぱち食堂の入り口を見るや否や
tomoさんいい感じのお店じゃないですか?メニュー全部が美味しそうですね
と、歓喜の声をあげた。**彼女のこの興奮は、単なる食欲ではない。それは、会社という名の「規律」と「不条理」に晒された魂が、定食屋という名の「無条件の許し」を見出した瞬間の、純粋な叫びだ。
お店の外観は非常に小さい。やや鰻の寝床のように細長いきもする。それが証拠に我々2名が座る席があったにもかかわらず、満席かと思って外で5分ほど待機していたほどなのだ。この外観のせいで、客は皆、自らの判断を停止し、外部の指示を待つ。これは、現代社会における**「自己判断能力の委譲」**のメタファーである。
そして、入店。中の様子が分かりづらいだけでなく、スタッフも海外の人らしく誘導とかも一切無しだ。いらっしゃいませとも言われなかった気がする。いやいやきっと忙しく、それどころじゃなかったのかもしれない。吾輩の耳が日曜日であったのかもしれない。
「席は2名分空いているのかな?」思わずごちてみる。こちらにどうぞと誘導された席は、前の客のお皿がまだ残っていた。この席への誘導は、この店が提供する「リアル」であり、「効率」の裏返しだ。完璧なサービスを求めるなら、時間と金を払え。この店は、多少の「不完全さ」を許容する代わりに、最高のコストパフォーマンスという名の「赦し」を与える。
魚定食の歴史と鶏生姜焼きの「不覚」
定食屋好きなtomoさんはやや興奮気味にメニューを物色していた。すでに青魚系か鮭系にする腹積もりはあるらしい。彼女が求めるのは、家庭の食卓が提供しなくなった**「焼魚の原風景」**なのだ。
この店のウリは、その歴史にも裏付けられている。創業者は、うどん屋から始まり、夜は居酒屋と業態を変化させた末に、干物定食専門店へと辿り着いた。これは、都市の市場原理の中で、最も求められる「純粋な需要」を徹底的に追求した結果だ。彼らは、短時間で最高の焼き加減を実現する独自開発の炭火焼機を導入し、「ふだん家庭で食べられないものを提供する」という、極めてプリミティブな願望を叶えることで、新宿という戦場で勝利したのだ。
そして、tomoさんは鮭ハラス定食(¥1000前後)に決定。彼女の選択は、この店の核心を突いている。
一方、吾輩は鶏生姜焼きという見たことも聞いたことも無いメニューに決定。鶏生姜焼きが¥900で、これに納豆を追加。もちろんご飯は大盛で、これで合計¥1050。まさに定食屋はコスパが最高すぎるのだ。
しかもこの納豆が中粒か大粒の普通の納豆なのかと思っていたら小粒納豆が出てきて、吾輩の納豆の好みがわかっておると独りごちてみるのであった。無論ヒキワリだったら最高なのは言及するに及ばない。納豆の粒のサイズという細部の嗜好が満たされる時、人間は「理解された」という、孤独な魂にとって最高の幸福を感じる。
注文はテーブル席に付属している横にしたスマホのような舶来物の代物のようなものでポチポチおしながら最後に決定ボタンをおして送信する方式だ。人間の感情やミスを排除した、効率の極致。我々は、このデジタルな「指示出し装置」に、自らの欲求を委ねることで、このシステムの一員となる。
淡泊と濃厚の「相殺」哲学
しばし着丼。
『着丼ドーンだ!!』


早速味噌汁からズズズズっ。ふむ。これはまぁ普通よの。味噌汁の「普通さ」は、メインディッシュの「非凡さ」を引き立てるための、献身的な脇役である。哲学における「背景」の存在意義と同じだ。
そして未体験ゾーンの鶏の生姜焼きに着手。パクッ。うむ、豚の生姜焼きよりも、かなり淡泊な味わいを堪能できる。これはこれで悪くはない。肉自体は淡泊だがタレが割と濃厚な気がするから相殺といった様相を呈している。これは、都市生活における「バランスの美学」だ。ストレス(濃厚さ)と解放(淡泊さ)を、ぎりぎりのラインで保つことで、正気を維持しようとする人間の試みそのもの。
ここでtomoさんが鮭ハラスをすこしシェアしてくれる。感謝である。お返しに鶏をリターンしたのは言うまでもない。Oh、鮭ハラスは油ノリノリでいい感じだぞ。この脂の豊穣さこそ、tomoさんが会社のストレスという名の「枯渇」から逃れるために求めた、「生命力」のメタファーだ。だが吾輩には量がいささか物足りないかもとも思案した。満足とは、常に次の欲求を生む。
魚料理がなにより好物のtomoさんは、一言も発することもなく黙々と食している。彼女は今、内なる自己と向き合い、ただ食べるという本能的な行為によって、魂を浄化している。吾輩もそれに合わせる形で黙々と食した。
後悔という名の「再訪の予言」
二人とも満足で店を後にした。tomoさんは友達を連れてきたいと言って新宿からの道が覚えられるか自信がないらしく、目印の建物をさかんに写真を激写していた。これは、**「幸福の再現性」**への切実な願いだ。一度得た満足を、他者と共有し、再び体験したいという、人間的な、あまりにも人間的な執着。
ふと吾輩はここへきて、しんぱち食堂にきたら鮭ハラスか鯖定食を食そうと思ってきたはずなのに、何故か鶏生姜焼きという不覚の刺客を送り込まれ、ついつい注文したことに気が付いたのだ。
あぁ、魚定食がウリなのに鶏肉を食してしまったことに、いささかの後悔が後ろ髪をひかれたので、もう一度こなくてはならないと感じたのはここだけの話なのだ。
この「不覚」こそが、この探訪の最大の哲学的な成果である。真理(焼き魚)を目前にして、あえて傍流(鶏生姜焼き)を選ぶという、吾輩の無意識の反抗。しかし、その反抗の結末は「後悔」という名の自己懲罰であり、それはすなわち、この店の真理に、吾輩の魂が深く囚われていることの証明に他ならない。
吾輩は牛。草を食むことで世界を考察する。だが、たまには魚定食という名の「原風景」を食さねば、この都市の複雑な哲学は理解できまい。
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