吾輩は肉食獣から逃れ、草を食むという穏当な使命を帯びてこの世に生を受けたはずの吾輩が、なぜインド料理の店に座っているのか。この状況そのものが、既に一つの滑稽なる哲学的なアイロニーである。
本日の同行者は、ラーメンの探求者として知られる友人のマロン君だ。彼は、あらゆる麺とスープの組み合わせに、人生の深奥を見出そうとする真面目な探求者である。
マロン君モウモウさん。カレーというものは、その『旨味の構造』を突き詰めれば、究極的には『スープの出汁』に帰結するのではないでしょうか。この濃厚なルーの裏側に隠されたスパイスの調和こそ、ラーメンにおけるタレとスープの完璧なる配合と、本質的に同義であると私は愚考致します
マロン君は、例によって丁寧な言葉遣いで真面目にそう語る。
しかし、吾輩の脳内では、この深遠なるラーメン哲学は、たちまち喜劇へと変換される。



(吾輩の脳内変換):カシミールカレーの底に、実は至高の豚骨魚介スープが隠されていないか、我々は今、確認せねばならない。カレー粉は、単なる麺を隠すためのカモフラージュではないか!
嗚呼、純粋な探求者は、その純粋さゆえに、時に現実から目を背け、自らの望む真理を対象に投影してしまう。
この上野の「デリー」は、単なるカレー屋ではない。それは、日本の食文化における「異文化受容」の歴史的なモニュメントだ。昭和三十一年(1956年)の創業以来、創業者である伊藤健児氏が、当時の日本では珍しかったインド・カシミール地方の本格的な味を日本に持ち込もうとした、その果敢なる挑戦の痕跡である。当時の日本人にとって、この味は異物であり、抵抗であったに違いない。だが、抵抗こそが、文化の進化を促す。
吾輩がこの店の深遠を突き詰めるのは、他ならぬ、その「抵抗」の哲学を理解するためだ。
そして、我々の前に、運命の皿が置かれる。
「ついに、この深淵なる出汁、いや、ルーが…! 『着丼ドーンだ!!』」


ラーメン用語をカレー皿に適用するという吾輩の哲学は、常に、ジャンルという名の既成概念に対する、静かなる反抗である。
マロン君は、目の前の黒に近い色彩の「カシミールカレー」を見て、息を呑む。





モウモウ殿、この色彩…そして、この湯気から立ち上る、静かでありながら攻撃的な辛味のオーラは、まるで、極限まで濃縮された醤油ラーメンのタレが持つ、あの研ぎ澄まされたエッジのようです。これは、辛さの向こう側に旨味の涅槃があるという、一種の苦行を伴う美食ではないでしょうか。



(吾輩の脳内変換):くっ…この辛さ、まるで舌を燃やす地獄の業火!こんな刺激的なスープの出汁を、麺ではなく、あろうことか『米』で啜らねばならないとは!マズイ!麺がない!誰か吾輩に麺を寄越せ!米なんかで究極の出汁の味がわかるか!
吾輩は、マロン君の悲壮なまでの「ラーメンの定義からの逸脱」に対する葛藤を、勝手に代弁し、脳内で騒ぎ立てる。
吾輩自身は、スプーンでその黒い液体を口に運ぶ。
その辛さは、確かに凄絶だ。舌の細胞の一つ一つが、灼熱の哲学を強制的に注入される。だが、その一歩奥には、驚くほどの旨味の層が隠されている。スパイスが主張するのではなく、スパイスが旨味という名の真理を、より際立たせるために、敢えて自らを燃焼させているのだ。
このカシミールカレーは、一見、薄いスープのように見えるが、その実は、人間の欲望や、人生の苦味、そしてそれを乗り越えた先にのみ見える静かなる歓喜を表現している。それは、辛さという名の「抵抗」なくしては到達しえない境地だ。
マロン君は汗を拭いながら、真面目な顔で静かに完食した。彼は、このカレーの中に、究極の出汁を見つけたのか、それとも、麺なき世界での絶望を見たのか。吾輩には知る由もない。
吾輩の食通としての結論はこうだ。
このデリーのカレーは、人間の持つ「慣れ親しんだ味」という名の鎖を断ち切り、新たな美食の領域へと踏み出す勇気を、一口の辛さをもって強要する。我々は、この灼熱の苦行を通じて、辛さという名の哲学を咀嚼し、世界はもっと広く、もっと過激で、そしてもっと深い旨味に満ちていることを、知らされるのだ。
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