序章:欲望という名の、形而上学的衝動
仕事という名の強制労働から解放された黄昏時。新宿の街は、資本主義社会という巨大な歯車から吐き出された労働者たちで溢れかえっていた。彼らは二つに分類される。家路を急ぎ、束の間の休息を求める者たち。そして、夜という名の自由市場へと繰り出し、新たな刺激を求める放蕩者たち。私の隣を歩くラーメン求道者・マロン君は、明らかに後者の顔をしていた。
「モウモウさん」と彼は、やや芝居がかった口調で切り出した。
マロン君どうにも今日は、カレーという深淵を覗き込みたい気分なのです。スパイスという名の混沌の中に身を投じ、自己を再定義したい……そんな実存的な衝動に駆られております
興味深い発言である。普段は「ラーメンこそが宇宙の真理」と豪語する男が、今日に限ってカレーを求めている。これは一種の転向なのか、それとも思想の多様化なのか。しかし、胃袋が発する欲求は、カントの定言命法よりも強い絶対性を持つ。議論の余地はない。
私は即座に、脳内の検索エンジン(グーグル的なもの)を起動させた。新宿、カレー、歴史、そして哲学。複数のパラメータを入力し、最適解を導き出す。数秒後、一つの回答が浮上した。
「……ならば案内しよう。新宿の路地裏に鎮座する、『王ろじ』へと」
第一章:誘惑という名の、ガンジー的試練
新宿三丁目の喧騒を縫うように、我々は歩を進める。途中、鼻腔を猛烈に刺激する香辛料の芳香が漂ってきた。それは、名店『ガンジー』から発せられる、スパイスという名の非暴力的攻撃である。マロン君は足を止め、瞳を輝かせた。





おや、もしやここですか? この香り……誠に、誠に魅惑的でございます。まるでインドの大地から直接召喚されたかのような、霊的な芳香ですね
彼の言葉には、既に半分降伏しかけている弱い意志が透けて見える。だが、ここで妥協するわけにはいかない。真理への道は、常に誘惑に満ちているものだ。



いや、マロン君。そこではない。誘惑に負けるのは、思考の停止を意味する。我々が目指すのは、その先にある『歴史の集積所』だ。ガンジーは素晴らしいが、今日我々が求めるのは、もっと深い時間の層に根ざした真理なのだよ
マロン君は名残惜しそうに振り返りながらも、私に従った。彼の忠誠心は、時に感動的ですらある。
あと新宿でカツと言えば、遠い日の夏に行った豚珍館を思い出さないわけにはいかないのだ


第二章:大正という名の、遠い記憶
辿り着いたのは、『王ろじ』。その佇まいは、まるで時間が止まったかのような静謐さを湛えていた。大正10年(1921年)創業。この数字が持つ意味を、現代人はどれほど理解しているだろうか。
日本がまだ軍国主義の道を歩み始める前、関東大震災の前、昭和という激動の時代が始まる前。この店は既に、新宿の路地裏で豚肉を揚げていたのである。100年を超える時間。それは、トレンドという名の泡沫を冷酷に削ぎ落とし、本質だけを煮詰めた歳月の重みだ。
「日本で初めて『とんかつ』という名称を掲げた店の一つ」という伝説もある。真偽は定かではないが、こういった神話性こそが、老舗に備わる「物語資本」なのである。歴史は最強のブランディングだ。


店内へ足を踏み入れると、そこには都会の狂騒とは隔絶された、別種の時間が流れていた。切り盛りしているのは、老夫婦とおぼしきお二人。その無駄のない、しかし温かみのある動作は、何十年という反復が生み出した「身体知」の結晶である。彼らは料理人というより、むしろ儀式の執行者に近い。
「モウモウさん、この空間……」マロン君は静かに囁いた。



まるで時間が琥珀の中に閉じ込められたようですね。誠に、誠に落ち着きます。現代社会の喧騒から隔離された、一種の聖域でございます
彼はそう言って、運ばれてきた温かいお茶を両手で包み込むように持ち、ゆっくりとすすった。その姿は、まるで茶道の作法を実践しているかのようであった。
第三章:トン丼という名の、言語的革命
我々が注文したのは、この店の象徴的存在、**『トン丼』(¥1300)**である。世間一般では「カツカレー」と呼ばれる料理のカテゴリーに属するはずだが、ここでその名は通用しない。あくまで「トン丼」なのだ。
この命名行為は、単なる言葉遊びではない。ソシュール的に言えば、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の恣意的な結合を拒否し、独自の記号体系を構築する試みである。つまり、「我々の料理は、世に溢れる『カツカレー』という凡庸な概念とは本質的に異なる存在である」という宣言なのだ。
待っている間、マロン君が自身のカレー論を展開し始めた。彼の丁寧な言葉遣いの裏には、常に知的な探求心と、同時に極めて肉体的な飢餓感が共存している。



私にとってカレーとは、ヘーゲル的な弁証法の具現化なのです。様々なスパイスが個別の主張(テーゼ)を持ちながらも、互いに反発し(アンチテーゼ)、最終的には『カレー』という統一された真理(ジンテーゼ)へと収束する。それは、多様性を認めつつも普遍的な調和を追求する、我々人類の理想そのものではないでしょうか
私は黙って頷いた。時に彼の哲学は大げさだが、その情熱は本物である。
「本日は」と彼は続けた。



この『トン丼』という名の真理を、全身全霊で受け止める所存です
その瞬間、老夫婦の片割れが、静かに我々のテーブルへと近づいてきた。
第四章:着丼という名の、啓示の瞬間
『着丼ドーンだ!!』


目の前に現れたのは、視覚的常識を破壊する異形の美。まず驚愕させられるのは、その器である。丼とソーサーが最初から一体化し、物理的に結合しているのだ。分離不可能な、この一体性。これは何を意味するのか。
プラトン的に解釈すれば、イデアとしての「完全な形」が、この世界に具現化したものと言えるかもしれない。あるいは、ハイデガー的に言えば、「器」と「皿」という二つの存在者が、「トン丼を盛る」という本来的な目的のために統合された、真正な「道具」なのである。
その器の中には、円柱状に成形された肉厚なカツが三つ、濃褐色の液体の海に浮かんでいる。まるで、プレートテクトニクスによって海上に突き出た島々のように。
「……おお」マロン君は、まるで宗教的な啓示を受けたかのような表情で呟いた。



なんという造形美。このカツの厚み、圧倒的な存在感。そして、丼と皿が融合したこの構造……機能美と独創性が、完璧なバランスで共存しております!
彼はしばらくその光景を眺め、静かにスプーンを手に取った。そして、慎重に、まるで考古学者が遺物を扱うように、一切れを口へと運ぶ。
咀嚼。嚥下。沈黙。
「……うまい」
彼の声は、驚くほど静かだった。時に、真の感動は言葉を奪うものである。



モウモウさん、これは素晴らしい。衣のカリッとした食感の後に訪れる、豚肉の圧倒的な弾力と旨味。そして、このカレー……後から追いかけてくるスパイシーな辛味が、脳髄を心地よく刺激します。これは単なる食事ではない。一種の体験、いや、経験そのものですね
第五章:真理という名の、不可逆的な現象
私もまた、その「真理」を一切れ口に運んだ。
カツは、一般的なそれとは明らかに異なる。薄くスライスされた肉ではなく、まるで豚肉の塊を再構築したかのような、圧倒的な密度と存在感。そしてカレーは、小麦粉の重みを感じさせない、やや辛口でソリッドな味わいだ。スパイスが「点」で攻撃してくるのではなく、「面」で包囲してくる。
「なるほど」私は独白した



これは『カツ』と『カレー』の妥協点を探る料理ではない。両者が互いの矜持を賭けて激突し、その衝突から生まれた第三の物質。それが『トン丼』なのだな。醤油でもソースでもない、このスパイシーな液体に抱かれるために、このカツは生まれてきたのだ
カツカレーという料理は、往々にして「カツ」と「カレー」の単純な足し算に過ぎない。しかし、ここでは化学反応が起きている。1+1が3になる、まさにシナジー効果である。
マロン君は、最後の一滴まで慈しむように、丁寧に完食した。彼の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。スパイスによる発汗作用と、満足感による高揚が混ざり合った結果だろう。



この辛味、そして肉の力強さ、今日の私の迷い──カレーかラーメンかという二項対立は、この一皿によって綺麗に止揚されました。誠に、ご馳走様でした
終章:¥1300という名の、あまりにも安い通行料
店を出る頃には、新宿の夜はさらに深まっていた。ネオンの光が、まるで現代版の提灯のように、路地を照らしている。
¥1300という対価。これは高いのか、安いのか。経済学的には「適正価格」だろう。しかし、文化人類学的に見れば、100年以上の歴史という無形資産、老夫婦の熟練した技術、そして「トン丼」という独自の概念体系を買い取るには、あまりにも安すぎる通行料ではないだろうか。
「マロン君、次は再びラーメンの深淵へ戻るのか?」
「ええ」彼は満足げに答えた。



ですが、今日のこのスパイスの刺激は、私のラーメン探求にも新たな視座を与えてくれそうです。カレーとラーメン、一見無関係に見える二つの料理も、『スープという液体に具材を浸す』という構造では共通しています。今日の経験は、きっと私のラーメン哲学を深化させるでしょう
新宿の路地裏には、今も王が住んでいる。その名は「王ろじ」。大正という遠い時代から、変わらぬ矜持を持って、トン丼という真理を提供し続けている。
流行という名の波は、常に街を襲う。しかし、本質的なものは決して流されない。それは岩のように、あるいは老樹のように、ただそこに在り続ける。
我々は、その「在り続けるもの」に触れたのだ。そしてそれは、¥1300という価格では測れない、かけがえのない体験であった。
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