実写版『秒速五センチメートル』の感想を述べてみようか。何故実写版でアニメ版のような虚無を実写化できなかったのか?

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実写版を見に行った

吾輩は牛である。草を喰み、地球という巨大なサラダボウルを咀嚼しながら、悠久の時間を反芻する者だ。そんな吾輩が、かの新海誠監督の金字塔**『秒速五センチメートル』**の実写版を観た。今さらながら感想を述べてみようじゃないか。

アニメ版を初めて観たとき、吾輩の心に広大な虚無の荒野が広がったのを覚えている。それは、喪失感と憧憬が渾然一体となった、茫漠とした虚無の世界観であった。その世界観こそが、この物語の本質であり、人間の生の断片を切り取った至高の美しさだと思っていたのだ。だからこそ、実写版にも吾輩はそれを求めた。しかし、スクリーンに映し出されたのは……。

「粗い映像」というメタファー

まず、映画冒頭から吾輩の繊細な眼(4つあるうちの2つ)は異変を察知した。映像が、どうにも粗いのだ。まるで8ミリフィルムを無理やり引き伸ばしたかのようなざらつき。吾輩が映画館という現代の洞窟を訪れるのは、実に8年ぶりくらいだったか。時の流れとともに進化するはずの映像技術が、まさか退行したのか?いや、これはきっと、記憶の不確かさ、あるいは過去の淡い思い出の質感を表現したメタファーに違いない、と哲学的考察を試みる。

しかし、吾輩の心は「映画館のスクリーンってこんなに粗い映像だっけ?」という純粋な疑問で満たされた。デジタル時代の洗練された映像に慣れきった吾輩にとって、このざらつきは、物語への没入を一時的に阻害する壁となった。

雪の中の「痛さ」と「ユーモア」の不在

さて、物語の核となるシーン。遠野貴樹が岩舟(正確には栃木だが、心情的には地の果て)にいる明里に「逢いたい一心」で一人、雪の中を向かう場面だ。電車の遅延という、制御不能な自然の暴力と、それに翻弄される人間の無力感。これはアニメ版と同様、心が痛いし、冷たいし、寒い。貴樹の純粋すぎる想いが、吾輩の体温すら奪っていくようだ。この痛々しさは共通している。

しかし、アニメ版では、この極限の状況下での貴樹のモノローグが、痛みを詩に昇華していた。実写版では、その痛みが「現実の痛み」として生々しく、やや単調に伝わる。そして、せっかく心を込めて書いて来た手紙が風に吹き飛ぶ。この喪失。

モウモウ

貴樹よ、貴君は一体、何と戦っているのだ?雪か?時間か?それとも、その手中から滑り落ちる「手紙」という名の形骸化した約束か?人間は、なぜこうも「過去の遺物」に執着し、現在の生を苦行に変えてしまうのだろうか。手紙など、また書けばよかろうに。しかし、その「また」がないからこそ、切ないのだろうか。ああ、なんて不毛な愛の形だ。

実写版『秒速五センチメートル』のあらすじ:三つの章からなる人生の断章

吾輩、哲学的牛が咀嚼した実写版『秒速五センチメートル』のあらすじは、原作アニメと同様、三つの時間軸と場所で構成され、遠野貴樹篠原明里、そして貴樹に想いを寄せる澄田花苗の18年間にわたる人生の断章を描いています。

ここであらすじと吾輩の感想を述べてみよう

1. 桜花抄(おうかしょう):距離の始まり

舞台: 1990年代前半、東京の小学校~中学1年の冬(栃木・岩舟)

  • 出会いと絆: 東京の小学校で、転校生同士で身体が弱く、内向的な遠野貴樹篠原明里は出会い、互いの孤独を埋め合うように親密な関係になります。彼らは精神的に似通っており、将来もずっと一緒にいられると信じていました。
  • 最初の別れ: 小学校卒業と同時に、明里は親の転勤で栃木県に引っ越します。二人は手紙で連絡を取り合いますが、貴樹もまた鹿児島県(種子島)への引っ越しが決まります。
  • 雪の夜の再会: 貴樹は鹿児島へ行く前に、明里に会うため、一人で大雪の中、電車を乗り継ぎ栃木県の岩舟へ向かいます。電車の遅延という自然の暴力に翻弄されながらも、貴樹は明里との再会を果たし、雪の舞う桜の木の下で、最初で最後のキスを交わします。二人は、2009年3月26日に再びこの場所で会うという約束を交わします。
モウモウ

桜花抄。人間は、最も純粋で脆い感情を、最も残酷で遅い雪の中で確認し合うのだ。秒速五センチメートルで舞い落ちる花びらのように、二人の時間も、ゆっくりと、しかし確実に離れていく運命を孕んでいる。この「距離」の始まりこそが、全ての虚無の種だ。美しい世界観が充分描かれている。ここまではアニメ版に負けていない。

2. コスモナウト:届かぬ想い

舞台: 高校時代(鹿児島・種子島)

  • 澄田の出現: 貴樹は種子島の高校に通い、同級生の澄田花苗と出会います。中学2年から転校してきた貴樹に、澄田は一目で恋心を抱き、同じ高校へ進学します。
  • 片思いの葛藤: 澄田は、貴樹に対する想いを伝えたいと強く願いますが、貴樹の視線が常に自分ではない**「遠い何か」**(明里)を見つめていることを察しており、なかなか告白できません。サーフィンに打ち込むことで自身の進路や恋の葛藤を乗り越えようとします。
  • ロケットの轟音: 澄田が勇気を出して貴樹に想いを伝えようと決心したその瞬間、種子島宇宙センターからロケットが打ち上げられます。その轟音は彼女の言葉をかき消し、貴樹の心には届きません。貴樹は澄田の想いに気づきながらも、応えることはしませんでした。
モウモウ

コスモナウト。ロケットとは、未来への猛烈な速度の象徴。一方、澄田の恋は秒速五センチメートルよりも緩やかな、しかし切実な速度。貴樹は、過去の記憶という名の重力に囚われたまま、足元の現実の愛を見ることができない。全く、人間の視野の狭さには呆れるばかりだ。しかし種子島の美しい風景や海など、地方ののどかな高校生活がリアルに描かれていて、映画として楽しめる筋立てになっている

3. 秒速五センチメートル:大人の未練と現実

舞台: 2000年代後半、東京(社会人時代)

  • すり減る日常: 東京でプログラマーとして働く貴樹(30歳目前)は、過去の明里との思い出に囚われ続け、人と深く関わろうとせず、心に閉塞感と焦燥感を抱きながら日々を過ごしています。3年交際した恋人とも、心が通わないまま別れを選びます。
  • 明里の人生: 一方、明里は過去の思い出を大切にしながらも、東京で書店員として静かに日常を生きており、すでに婚約者(または夫)と共に新しい人生を歩んでいました。
  • 運命の再会とすれ違い(実写版の改変): 実写版では、貴樹はプラネタリウムの解説員として働き始め、明里は仕事(または私用)でそのプラネタリウムを訪れ、貴樹の解説を聞くという偶然の接点が生まれます。
    • 貴樹は、過去の約束や未練を科学館の館長に打ち明けます。館長から明里の**「昔出会って大切なものは、思い出じゃなくていまも日常なんだって」**という言葉を聞き、過去との決別を示唆されます。
    • 貴樹の知り合いが澄田花苗の姉という設定で再登場し、過去の人間関係が現代に絡み合います。
  • 踏切での決着: 物語の最後、貴樹は思い出の場所(小学校時代の坂道)の踏切で、偶然明里とすれ違います。電車が通り過ぎた後、明里の姿はそこにはありませんでしたが、貴樹は過去の執着を断ち切り、何かを決心したように前を向いて歩き出します。
モウモウ

秒速五センチメートル。このあたりからご都合主義がバシバシでてきて。えっ?っていう連続ジェットコースターに乗ってしまった。これは、思い出を抱きしめて現実を彷徨う男の未練と、思い出を糧に現実を生きる女の達観の物語だ。実写版は、「過去のトラウマから立ち直って、前を向け」という、あまりにも親切すぎる説明を付け加えた。吾輩の求めた茫漠な虚無は、この「親切」によって、完全に蒸発してしまったのだ。

二人の心情の考察:現実と理想の溝

ではここからは一体どういうことなのかを詳細に見ていこう。

実写版における二人の心情は、アニメ版とは異なるベクトルで描かれている

アニメ版は、言葉少なで、特に貴樹は内省的でメランコリック。その行動と表情の行間に、観客は自らの経験を重ねて虚無を味わう。

実写版の二人は、より「現実の高校生」に近い解像度で描写しようとしたように見える。

  • 明里の心情: アニメ版よりも、貴樹への想いと、離れていく現実に対する諦念が、表情や仕草から読み取りやすい。しかし、その分、神秘性や「手が届かない美しさ」は薄れる。
  • 貴樹の心情: 痛いほど純粋で、一途。だが、それが大人になっても引きずられる「未練がましい人物像」のプロトタイプになってしまっている。
モウモウ

人間は、なぜ「別れの瞬間」を美化し、その後の「成長」を顧みないのだろう。あの栃木での夜は、確かに美しかった。しかし、貴樹よ、貴君は明里という名の美しい化石に、いつまでもへばりつく執着という想いを体現化した存在のようだ。明里もまた、あの夜を「人生のハイライト」として額縁に入れ、貴樹を「純粋だった頃の自分」の象徴として消費しているに過ぎないのではないか。愛とは、かくも自己中心的な儀式なのか。

種子島と「第二の主役」の出現

貴樹は鹿児島へ、正確には種子島へ引っ越しとなる。物理的な距離が、もはや「秒速五センチメートル」では追いつけない次元になる。そして、ここで現れるのが、澄田花苗演じる森七菜だ。

彼女の演技は好演という言葉では足りない。彼女こそが、この実写版の救いの光、あるいは、唯一にして最大の人間的体温を運んでくる存在だ。

  • 恋する乙女の心情が手に取るようにわかるのだ。 特に、パックジュースを飲み終えた時にズズズと音を立ててしまい、恥ずかしくてハッとする仕草は、秀逸の極みだった。あの瞬間、吾輩は「ああ、人間も捨てたもんじゃない」と一瞬にして哲学的考察を放棄しかけたほどだ。あの音と仕草には、全ての恋する乙女の不器用さと可愛らしさが凝縮されていた。

種子島の美しい景色もまた、吾輩の心を揺さぶった。大スクリーンで観たかったのは、この雄大で生命力に満ちた自然の描写だ。東京の無機質な日常と対比され、澄田の純粋な想いを包み込む。

そして、澄田が貴樹に想いを伝えようとしたとき、空に打ちあがるロケット

モウモウ

ロケットとは、未来への渇望、夢、そして何よりも「速度」の象徴だ。秒速五センチメートルとは真逆の、猛烈な速度。澄田の想いは、ロケットの轟音にかき消され、貴樹の心には届かない。貴樹の視線は常に「遠い星」(明里)を追っており、足元の「暖かい芝生」(澄田)には気づかない。ああ、これぞ人間の滑稽さの極み。もっとも、吾輩から見れば、ロケットも恋愛も、宇宙の塵となる運命の、取るに足らない一過性の熱狂に過ぎないのだがね。

問題は「その後」だ:ご都合主義と説明過多

さて、問題はこの後の大人になった貴樹と明里のパートだ。

アニメ版では、貴樹が未練を断ち切れずにくすぶっているのは明白だが、明里の生活は断片的にしか描かれない。余韻を残し、見る者に想像させて、勝手に切なくなる仕組みが、アニメ版の美学であった。観客は「あの二人は、もしかしたら…」「いや、もう別々の人生を歩んでいるのだろう…」と勝手に切なさの沼に沈んでいく。

ところが、実写版では、その余韻も何もかもが、心情をベラベラと喋り過ぎることで吹き飛んでしまう。

興ざめポイントとアイロニーの対象

1. プラネタリウム館長への告白

貴樹がプラネタリウムの館長に、**「あの木の下であう約束」**のことを話す。そして過去を回想して涙するのだ。

モウモウ

一体全体、誰がプラネタリウムの館長にそんな個人的なトラウマレベルの昔話をするというのだ!プラネタリウムは、宇宙の神秘を語る場所であって、貴君の内なる「未練」を展示する場所ではない。観客が星空にロマンを感じている背後で、館長と「過去の恋バナ」をする貴樹の姿は、滑稽を通り越して、痛々しい。これは、「内なる虚無」を観客に押し付けようとする、企てではないかとすら疑う。

小学校の頃の初恋を社会人にまでなって涙するもんかね?アニメ版の心の隙間が埋まらずに会社を退職する方が、まだ理に適っている気がする。いや、気持ちは理屈では説明ができない。ただ、ただ大人になっても小学生の初恋に涙を流す心情に感情移入ができないだけなのだ。 

一体この人はその間に恋愛をしてこなかった。もしくわ感情的苦痛を味わってこなかったというのだろうか?初恋を乗り越えるだけの恋愛を経験していないのなら分からんでもないが、あまりにもどうなのかと思ってしまったのだった。

2. 澄田のお姉さんという「奇跡」

貴樹の知り合いに澄田のお姉さん(宮崎あおい)という設定。

モウモウ

なんという、ご都合主義!地球上の七十億人の中から、貴君の過去と現在を繋ぐ役割を、よりによって、貴君を想っていた少女の姉に担わせるだと?まるで、この物語の神様が、「ほら、お前たちの運命は繋がっているんだぞ!感動しろ!」と叫んでいるようだ。宇宙のランダム性、人間の生の複雑さ、そして「無意味さ」こそが、感動を生むというのに、こんな予定調和の鎖で繋がれてしまっては、吾輩の哲学は成り立たない。

3. 近すぎる物理距離と情緒の崩壊

大人になってからの二人の物理距離感が近い。そして、澄田のお姉さんが「今日貴樹君と飲みに行くんだ」と連絡した際に、澄田が「1こだけ聞いておいて欲しいことがある」とお願いする。

過去の想い出が、現代にオールスターで蘇ってきており、情緒が吹き飛ぶのだ。

モウモウ

過去の淡い思い出は、靄がかかったように美しいままの方が、ドラマとしても美しいのだ。それなのに、現代の登場人物たちがゴチャゴチャとお喋りして、全てを説明し尽くしてしまう。まるで、美しい風景画の前に立って、その構図や筆使いを逐一解説される鑑賞者のようだ。これでは、鑑賞者が自分で「切ない」という感情を生成する余地がなくなるではないか。「全部説明してやらないと、現代の観客はついてこれないだろう」とでも言うつもりなのであろうか?

4. プラネタリウムでの再会(?)

プラネタリウムで貴樹が解説したのを、明里が客席で聞いている。そして、明里はパンフレットで貴樹の名前を見る。それを見ても尚、何の感情もわいてこないではないか。

モウモウ

一体、そんなグッドタイミングが人生に何度あるというのだ!宇宙の広大さ、時間の無慈悲さを描く物語で、この狭すぎる偶然は、見る者の心を遠ざける要因にしかならない。そして、パンフレットを見た明里の表情!あれは、「懐かしい…」という感情ではなく、むしろ「誰だっけ、この人?」というレベルの無関心ではないか?いや、貴樹のことすらすっかりおぼえていないのではないか?と吾輩は疑った。もしそうなら、それはそれで明里の人生の勝利であり、貴樹の未練の敗北という、最高の皮肉(アイロニー)になるのだが、映画はそれを描きたかったのだろうか?

明里が残した大切な言葉(実写版)

プラネタリウムの館長を通じて貴樹に伝えられた、明里の心情を示す重要なフレーズはこれです。

昔出会って大切なものは、思い出じゃなくていまも日常なんだって

この言葉は、過去の記憶に囚われ続ける貴樹に対して、「過去の出来事」が「現在の自分自身」を構成する一部となって生きている、という意味合いで伝わります。

また、館長との会話や、明里が残したPOPのメッセージ、そして過去の別れのシーンのセリフなども、貴樹の心を解きほぐす役割を果たしています。

  • POPに記されていたメッセージ:月は形を変えていつもあなたの見上げる場所にいます
  • 別れ際のセリフ(アニメ版でも重要なキーワード):貴樹くんはきっと大丈夫。この先もきっと大丈夫だから

実写版は、特に「昔出会って大切なものは、思い出じゃなくていまも日常なんだって」というメッセージを通じて、貴樹が過去の執着から解放され、現在を生きることを促す結末へと導いています。

モウモウ

「思い出じゃなくていまも日常」だと? ふむ。しかし、貴樹よ、貴君が求めていたのは、そんな説得力のある大人の真実だったのか? あの雪の夜、永遠を求めていたのではなかったか? 日常という名の飼料を与えられ、哲学的虚無という名の栄養失調から救われた貴樹は、本当に幸せなのだろうか。

純粋な頃の二人の救いと結末の荒野

しかし、実写版にも救いのシーンはあった。

小学校の頃の二人の描写は、とてもいいシーンだった。明里は転校生として自分に自信がなく、それを貴樹という**「共鳴しあう存在」**に救われる。この描写は、二人がなぜあれほど深く結びついたのかという、物語の根源をしっかりと示していた。

アニメ版と実写版の比較表

要素アニメ版:虚無と余韻の世界実写版:史実と説明の世界吾輩のツッコミ(アイロニー)
主題茫漠とした虚無感と時間の隔絶過去の愛の実写化と未練虚無は実写化できないのだ。
描写言葉少なな詩的モノローグ俳優による生々しい心情描写モノローグを喋りすぎなのだ。
余韻観客に想像させる「行間」ご都合主義と心情の全てを解説ペンペン草1本も生えない荒野
再会一瞬のすれ違い、運命の曖昧さプラネタリウムでの必然的な偶然宇宙規模の偶然はありえないのだ。
距離感物理的、精神的な遠い隔絶大人になってからの近すぎる距離遠くの星の方が美しく見えるのだ。
最高点桜の花びら、雪の夜のキス澄田花苗(森七菜)のパックジュースのズズズ音人間の愛は、音で表現されるのか。

結論:ぺんぺん草の生えない荒野

全体的に、実写版は、新海誠のアニメ版が内包していた**「虚無感」を前面に押し出すのではなく、物語の「史実」を忠実に、しかし「ご都合主義」「説明過多」**という名の栄養剤を過剰に投与することで、別物のようにうつらなくもなかった。

過去の淡い思い出は、靄がかかったように美しいままの方が、ドラマとしても美しいのだ。

アニメ版が、見終わった後に「ああ…」という深い溜息と共に切なさが心に沁みるのに対し、実写版は、見終わった後に「ふう…」という拍子抜けの溜息が漏れる。

そして、吾輩の心に訪れたのは、まさに茫漠な虚無感が映画を観終わって訪れる最初の感想であった。ただし、この虚無感は、アニメ版が内包していた**「詩的な虚無」ではなく、「何も残らなかった」という、文字通りの「ぺんぺん草1本も生えていない、荒野」**のような虚無感である。

吾輩は草を喰む。草は成長し、また喰まれる。この繰り返しこそが、生の真実。しかし、人間の物語は、どうしてこうも、過去の亡霊に囚われるのだろうか。

あくまでも一個人の感想に過ぎない。是非アニメ版と実写版を見比べて茫漠とした余韻を楽しむことをお勧めする。


投稿者プロフィール

モウモウ
モウモウ大富豪になっても結局食と旅
吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。

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