
人間という生き物は、学習する能力を持ちながらも、同じ過ちを繰り返す奇妙な習性がある。特に「事前準備」という、未来を予測しコントロールしようとする傲慢な試みにおいて、彼らはしばしば自滅する。
吾輩は牛である。名前はまだないが、スケジュール管理の能力は牛の歩みのように心許ない。

この日本橋兜町にある鰻の老舗「喜代川」の門を叩こうとしたのは、これが初めてではなかった。実に3回目である。過去2回、吾輩は意気揚々とこの地を訪れ、そして静かにシャッターと対峙した。定休日という名の、冷徹な現実の壁。自らの計画の甘さを、これほどまでに痛感させられる瞬間が他にあるだろうか。4つの胃袋が、虚無の鐘の音のように鳴り響いたものだ。しかし、3度目の正直とはよく言ったもので、本日、ようやくその重厚な扉が吾輩を迎え入れてくれた。

今回の同行者は、写真愛好家のpayaである。彼は自由気ままな生活を謳歌し、美味しいものには滅法目がなく、旅とサッカーを愛する、言わば「移動と快楽の専門家」だ。過去2回の定休日アタックにおいて、吾輩は彼を大いに引っ張り回してしまった。だが、その過程で他にもいくつかの美味に出会えたのだから、人間界の言葉を借りるなら「とりまよし」とすべきだろう。結果オーライという免罪符は、失敗した計画を美しくコーティングしてくれる。
前回の「銀座イタリー亭」の夜にも思索に耽ったが、人の縁とは、つくづく摩訶不思議なものである。吾輩が長年、せかせかと(まさに牛車を引くが如く)働いていた職場を去る日がやってきたとき、懇意にしていただいた、本当にお世話になった方々から、この「喜代川」のお食事券を頂戴したのだ。感謝の念で胸が、いや第一胃が一杯になる。資本主義の冷徹な労働契約の終わりに、このような温かな情緒の結晶が残るとは。そのありがたい券を握りしめ、吾輩はpayaと共にようやくこの聖域へと足を踏み入れた。
ここで、この老舗が纏う時間の重みを、事実(FACT)という名の不動のクロニクルとして整理しておこう。
「喜代川」の歴史と誇り
| 年月・指定 | 出来事(FACT) |
| 1874年(明治7年) | 日本橋に新場(現在の新大橋近く)にて創業。後に現在の兜町へ移転。 |
| 1945年(昭和20年)頃 | 戦災を免れた数少ない木造建築として、当時の佇まいを現代に残す。 |
| 2024年(令和6年) | 昭和初期の風情を残す店舗建物が、国の「登録有形文化財」に登録される。 |
建物に一歩足を踏み入れると、そこは明治・大正・昭和の空気が地層のように積み重なった空間だ。なにやら文化財に指定されているというのも、この柱の放つ鈍い光沢を見れば一目瞭然。金融の街・兜町の喧騒から遮断されたその空間は、時間を凍結させる魔法の檻のようでもある。
席に着き、payaと互いの近況報告を交わす。相変わらず自由な彼の一人語りを聞きながら、吾輩は静かに考察の準備を始める。注文したのは、両者ともに「鰻重・竹(6160円)」、そして「ご飯大盛り(+220円)」。これまた贅沢な炭水化物の要塞を築く選択だ。

payaがひとしきり「最近の旅先のカメラのレンズがどうの、サッカーの戦術がどうの」と、まるで呼吸をするように喋り続けている。吾輩はその言葉の波を右の耳から左の耳へと受け流しながら、ただひたすらに、厨房から漂うタレの焦げる芳香を待ちわびていた。彼の自由さは羨ましくもあるが、いま吾輩が向き合うべきは、人類の移動の歴史ではなく、目の前の魚類の変態である。
そして、その瞬間が訪れる。
『着丼ドーンだ!!』

重箱である。しかし吾輩の脳内には、有形文化財の天井を突き破らんばかりの轟音が響いた。
漆黒の重箱の蓋を開けると、そこには芸術品と呼ぶに相応しい、見事な黄金色の絨毯が敷き詰められていた。紀州備長炭でじっくりと焼き上げられた鰻が、大盛りという名の白米の台座の上に鎮座している。
箸を入れ、口に運ぶ。

……言葉を失う。いや、モノローグが加速する。
外側はパリッと香ばしく、しかし内側は驚くほどにふっくらと、まるでお祝いの席の座布団のように柔らかい。喜代川のウリである「創業以来、継ぎ足し続けられた秘伝のタレ」は、決して下品に主張しない。すっきりとした辛口でありながら、深みのあるコクが、鰻本来の脂の甘みを最大限に引き出している。大盛りにしたご飯の一粒一粒にそのタレが染み渡り、鰻、タレ、米の三位一体が、口の中で完璧な円舞曲(ワルツ)を踊る。これは調理ではなく、もはや錬金術だ。
それにしても、鰻という生き物は、いつ食べてもどうしてこれほどまでに我々の満足度を跳ね上げるのだろうか。
生物学的に見れば、鰻にはトリプトファンが豊富に含まれており、これが脳内で「幸せホルモン」ことセロトニンに化けるのだという。なるほど、吾輩の脳内はいま、セロトニンという名の幸福のスコールが降り注いでいる。人間も牛も、結局は脳内の化学物質に支配された哀れな、しかし愛おしい存在なのだ。1杯の鰻重が、これほど容易に精神の安寧をもたらす。現代のストレス社会における最高の精神安定剤が、この重箱の中に詰まっている。
payaはまだ「この鰻の焼き加減は写真の露出で言うと……」などと一人で喋っているが、その笑顔はセロトニンで完全に弛緩している。美味は、饒舌な人間をさらに陽気にさせるらしい。
人の縁がもたらしてくれた、この贅沢な時間。定休日に拒絶された過去の苦い記憶さえも、この一切れの鰻がすべて美談へと昇華させてくれた。
お食事券という名の「縁の結晶」を使い、満ち足りた胃袋を抱えて、吾輩とpayaは文化財の門を後にした。兜町の近代的なビルの隙間を吹き抜ける風は、さっきよりもほんの少し、優しく感じられた。やはり、世界を美しくするのは、いつだって少しの縁と、たっぷりのセロトニンである。
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