我々牛という種族は、広大な牧草地でただひたすらに草を噛み、4つの胃袋でそれを反芻(はんすう)し、太陽の軌道を追いながら穏やかな時間を過ごしている。変化といえば、たまに風の向きが変わるか、飼育員が持ってくる藁(わら)の質が少し良くなるか程度だ。
しかし、吾輩の主なる観察対象である「人間」という生き物は、どうやら定期的に何らかの対象に異常なまでの熱量を注ぎ込み、奇声を上げ、涙を流し、我を忘れるという謎の奇病を発症するらしい。人はそれを「熱狂」と呼ぶ。
吾輩から見れば、彼らがなぜそこまで興奮できるのか、まったくもって理解の範疇を超えている。
たとえば、あの「スポーツ」なる儀式だ。ボールという球体を蹴ったり投げたりする大人たちを、何万人もの人間が大巨声を張り上げて見つめている。先日も「ワールドカップ」とかいう大会で、見知らぬ男たちが走る姿を見て、大の大人が泣き叫んでいた。吾輩に言わせれば、青々とした新鮮な牧草が目の前に大量に投げ込まれたわけでもないのに、なぜあれほどアドレナリンを撒き散らせるのか不思議でならない。
またある者は、特定の「アイドル」や「推し」と呼ばれる同類に熱狂する。自分の生活費を削ってまで紙きれや小さなアクリル板を買い集め、「尊い」などと意味不明な言語を発しながら拝んでいる。吾輩たちの世界で例えるなら、「あの隣の牧場の黒牛の角の角度が尊い」と言って、大事なエサを全部差し出すようなものだ。正気の沙汰とは思えない。
では、なぜ人間はこれほどまでに「熱狂」を必要とするのだろうか?
吾輩の深い思索(と反芻)から導き出された結論はこうだ。 「人間は、退屈な自分自身の現実から逃避したくてたまらない生き物だから」である。
人間は知性が発達しすぎたゆえに、「生きる意味」や「将来の不安」、「明日の仕事」などという余計な雑念を日常的に抱え込んでいる。自分一人では耐えきれない現実の重圧から逃れるため、彼らは「何かに熱狂する」という合法的なトランス状態を求めているのだ。大勢で集まって同じものに熱狂すれば、「自分は一人ではない」という錯覚と、「大きな物語の一部になった」という安易な承認欲求を一度に満たすことができる。実に安上がりで、実に身勝手な心理メカニズムではないか。
しかし、この「熱狂」という感情の最大のアイロニー(皮肉)は、「熱狂すればするほど、冷めたときの反動が悲惨である」という点だ。
あんなに熱狂していたスポーツ大会が終われば、翌日には死んだような顔で満員電車に揺られ、あんなに追いかけていた「推し」が熱愛報道でも出そうものなら、手のひらを返したように攻撃を始める。熱病にうなされていた自分を忘れたかのように、「冷める」のである。熱狂とは、言わば感情の「前借り」に過ぎないのだ。
そこで、いつも冷静沈着な吾輩から、熱狂に疲れた哀れな人間たちへ「反芻(はんすう)のすすめ」を提案したい。
熱狂に身を任せて大騒ぎするのではなく、得た情報や感情を、一度胃袋に収め、時間をかけてじっくりと噛み戻し、冷めた頭で思索するのだ。
- 1回目: 感情のままに楽しむ(熱狂)
- 2回目: 「なぜ自分はこれに興奮したのか?」と客観的に分析する(反芻)
- 3回目: 「まあ、所詮は他人のビジネスか」とクスッと笑う(達観)
この「感情の3段反芻法」を取り入れれば、人間は無駄に全財産を注ぎ込むことも、熱狂の後に虚無感に襲われることもなくなるはずだ。熱源を他人に依存するのではなく、自分の内側にある小さな安らぎを愛でるべきである。
結論として言えることは以下だ。 「たまに熱狂するのも人生のスパイスだが、熱狂の渦中にいる自分を俯瞰(フカン)して笑えるくらいの余裕を持つべし」。
熱病に侵され、また新しい「熱狂の対象」を探してウロウロと彷徨う人間たちよ。たまにはスマートフォンの画面を閉じ、青空の下で草でも食みながら、吾輩のように静かに反芻してみるが良い。世界がどれほど滑稽で、そして平和であるかに気づくはずだ。吾輩が静かに草を食みながら人間どもの阿鼻叫喚を見守ることにしよう。

投稿者プロフィール

- 大富豪になっても結局食と旅
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吾輩は牛である。 名はモウモウである。 なんでも自由ヶ丘というハイカラな街のきらびやかなショーウィンドーの中でもうもう泣いていたことだけはとんと記憶している。
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